来た球を打っていたら・・・

新潟大学

土肥 栄祐


こんにちは。新潟大学の土肥です。2020年の8月にアメリカでの約4年半の研究留学から帰国し、私にとって初めての西海岸、新潟に研究者として着任しました。今回は、私の留学体験記を書くという貴重な機会を与えてもらい、感謝しています。皆さんに、私の留学に至った経緯や動機を、役立ててもらうというより、楽しんで頂けましたら幸いです。


なぜ留学?


小さな頃は、庭の石をめくってはダンゴムシやハサミムシをずーっと眺めてしまう、生き物大好き少年で、毎年墓参りに行く祖父母の住む瀬戸内の島で海が好きになり、高校生の時には、海洋生物学と環境問題を将来の仕事にしたいと考えていました。しかし、ひょんなことから医学部に進学し、「医者ってどんな仕事だろう?」と考えることから始まりました。はっきりしていたのは「どんな人でも病気や怪我をきたし得る」「先輩・後輩・同級生の殆どは将来同僚になる」ということでした。そこで、学生の間にできるだけ多様な仕事、多様な人たちと出会いたいと考え、20職種を超えるアルバイトを経験しました。現場に行き、現場の人に聞かなければ知ることができないことがあると気づき、いつか海外へ出て世界のどこかで暮らしたいなぁ、とおぼろげながら考えておりました。


飛び込んでみる


学部3回生の時、「いつでも遊びに来てください」と生化学の五十嵐和彦教授が授業で言われた言葉を真に受けて、遊びに行ったら「本当に来たのですか!」と驚かれ他のですが、研究について少年の様に楽しそうに語って頂いたお陰で、研究に興味を持ち、部活とアルバイトの合間に研究室に通わせてもらいました。私のような不真面目な学生を辛抱強くご指導頂いた武藤哲彦先生には本当に感謝しています。当時、武藤先生は、B細胞の分化に必須な転写因子に取り組まれ、とても重要なお仕事をされるのですが、その真摯に研究に向き合わる姿に触れたことが、私の中の研究に対するポジティブなイメージに繋がったのだと思います。とはいうものの卒後の進路には悩みましたが、色んなアドバイスを参考に、何事も経験してみなければ気が済まないと、2年の初期研修を行うことに決めました。全ての診療科があり、病床数に対し医者が少ない病院を選びました。んだところ、予想通り研修医が戦力として期待される急性期病院で学ぶこととなり、臨床の研修には事欠きませんでした、が、一方で。医学知識や教育が一貫した形で行き渡っていないという課題に直面できた貴重な体験でもありました。研修後は、これまたひょんなご縁から、脳神経内科を選び、大学院へ進学し基礎研究を行いました。


大学院での基礎研究


大学院では、特定の配列を有する細胞質蛋白質が、Hsc70に認識されLAMP2A陽性リソソームへ運搬し分解されるオートファジーの一型であるシャペロン介在性オートファジー(CMA)が、低酸素負荷にて活性化され細胞生存に寄与することを示しました。この時、基質蛋白質がMulti-vesicular bodyという細胞内小器官に取り込まれた後、一部はエクソソームとして細胞外に分泌されるという報告をみて、「細胞内の情報が細胞間情報伝達に直接つながる!」と、研究の興味が細胞内から細胞間コミュニケーションへと拡がりました。私たちの開発したCMA基質のラベル法を用い、細胞間での小胞移行まで確認しました、が、残念ながら、ここで大学院は卒業となりました。


基礎からかけ離れた臨床


院生時代に、大学や外勤先で初診外来を行なっていましたが、尊敬する聖路加国際病院膠原病科の岡田正人先生が「初診患者さんには最低でも45分かけます」と仰っていた言葉を受け、「自分は、最低でも初診患者さん1人に1時間かけよう!』と、病歴と診察を徹底するよう努めました。実際には、病歴と診察から問題点の抽出と優先順位の並び替え、そこから鑑別疾患を挙げた上で、必要な検査と治療を立案し1時間前に「はじめまして」と挨拶した患者さんに説明し納得してもらう、というのは非常にハードルが高く、当初は1時間では足りないことばかりでした。しかし、「来た球を必死で打っていたら」、結果として“患者さんの症状を紐解く”「General Neurology」を学ぶことに繋がりました。この時に、研修医時代に感じた課題でもあった、診断やどの科に進んでも大切なことを学べる総合診療の勉強会を、有志と共に診断推論を症例ベースで学ぶ形で立ち上げ、貴重な学びになりました。さらに学位取得後には、大学で入院診療チームの1つを担当した際には、私が神経内科での専門を選ばなかったためか、主に神経内科救急か、未診断の方を担当することとなりました。ここでも病歴と診察+論文検索に加え先輩方の助けも頂きながら「来た球を必死で打つ」を続けました。そうしますと、未診断から診療した患者さんの70%は診断でき、残りの大部分は2つに分類されることに気が付きました。1つは、家族歴の無い稀な遺伝性疾患の新規変異を持つ患者さん、もう1つは、血液または髄液に神経に対する自己抗体をもつ患者さんでした。稀な遺伝子の異常、免疫の異常、この2つこそ私が臨床現場で得た課題でありましたが、同時に臨床だけでは解決できないだろうと感じていました。


留学への切符


患者さんには「(世界のどこかで)偉い先生が、研究してくれています」と説明していたものの、自分でその現場をみてもいないので「本当にそうであろうか?」という疑問と、「実際に世界を見てみたい」という気持ちが次第に私の中で大きくなりました。もともと学位取得後には留学するつもりでしたが、あっという間に3年が過ぎ、「そろそろ外病院に行かないですか?」と異動のお話を頂きました。諦めの悪い私は留学先を探し続けていましたが、まさに運命の悪戯、翌日のWeb面接で留学が決まりました。現場から得た2つの課題に繋がりうる、ヒト繊維芽細胞由来神経細胞を用いた研究と、免疫と中枢神経の研究をしている加野先生がポスドクを探していたのです。色んなラボにアプライしては敗れを繰り返し、やっと思いが実りました。諦めなくて良かった。異動が既に決まっていたため、半年ほど県病院で勤務しましたが、とても働きやすい充実した環境で十分に臨床を行えましたが、市中の基幹病院であってもマニアックなJournalへのアクセスが無く、患者さんのための文献検索ができないという、新たな課題を学ぶ機会となりました。


いざボルチモアへ


ジョンズ・ホプキンス大学は、アメリカを代表する危険な都市ボルチモアにあるものの、ワシントンD.C.まで車で1時間、NYCまで3-4時間、NIHのあるベセスダまで1時間と、主要な研究施設や官公庁とのアクセスも良く、研究者が活発に活動できる環境でした。ボルチモアには、日本人のPrincipal Investigator(PI;研究室主宰者)、ポスドク、大学院生、学部学生が多く、ワシントンD.C.にいる官公庁、法曹、企業の方も含めて、多様な職種の方々と知り合うことが出来ました。日本では交流のなかった業界の人と知り合えるのは、留学の醍醐味の一つかも知れません。私の師事した加野先生は、免疫学で学位を取得後に、精神科で教授をされている澤明先生の下でポスドクをされた後に、独立されました。精神科にあるラボで免疫学の背景をもつ加野先生の下で、脳神経内科医の私が研究するという、多様性に満ちた体制で、異なる視点からの議論が自由に展開され、とても充実していました。加えて、澤先生のラボや、関係する他のラボとスペースを共有し、合同で研究報告会を行っていたため、年に4回は30〜40人以上の前でプレゼンする機会に恵まれ、この点も幸運でした。


私の研究

ボルチモア時代の、ラボメンバーと(ほとんど学生さん) 筆者(右列3番目、昭和のフォークシンガーにみたいですね)、PIの加野先生(右手前)。学部学生さんが非常に多く賑やかで、私が教えて貰うことの方が多かったです(笑)。

私の研究のメインテーマは、末梢免疫と脳機能の関係を行動レベルでみる、ものでした。投稿準備中なのですが、生体内での細胞間情報伝達の一つの側面を解明しようとする研究で、院生時代に抱いた問いに関する研究を行うことができ、とても刺激的でした。並行して、サイトカインであるIL-33のノックアウトマウスの行動異常の解析と脳のグリア細胞間の関係を炎症下でみる二つの研究を行い、アストロサイトの主要蛋白質であるGSTM1が脳内炎症時のミクログリアの活性化に必要であることを示しました。十分な仮説と実験計画を立てた上で、最も効率的かつ簡便な方法を組み込み仮説検証をすすめる方法論を学ぶと共に、多岐にわたる手法・解析法を実践できました。また、出版前のデータが披露され議論されるクローズドな研究会への参加は、留学しなければ経験できなかったことの一つだと思います。競争相手の情報を受け、研究を手早くまとめ、生理的なIL-33の脳機能への影響を最初に報告することができました。競争の激しさを身に染みて感じた出来事でした。


ラボの引っ越し

アラバマ時代の友人たちと アラバマに着いて1ヶ月後にあったPosdoc Research Dayに参加し初めてできた友人TJ(写真左端)。研究とカレーのネタで盛り上がった後、プレゼン順位はTJが1位、筆者が2位という結果で、更に持ち上がりました(笑)。彼から沢山の友人を紹介して貰い、沢山の良い友人に恵まれました❗️感謝です❗️(お世話になった日本人の方々も沢山いらっしゃるのですが、写真が多過ぎて載せ切れておりません💦)

メインの研究を進め3年が経った頃、上司の栄転が決まり、ラボがUniversity of Alabama at Birmingham (UAB)へ移動することになりました。着いていくのは私1人。書類や資材に加え、冷蔵庫の中身も全部リスト化して業者さんへ引き渡し、送別会と引越しをして(手伝ってくれた皆さん、ありがとうございました!)、3年分の荷物を積んだトラックを北から南に15時間運転しました。期せずして、アメリカの2つの都市、比較的都会のボルチモアから、牛の方が人より多い保守的なアラバマへ。大きな変化でしたが、どこでも美味しそうに物を食べて愉快に過ごせば人種を問わず友人ができる、という特技を会得できていた私は、アラバマでもとても楽しく過ごせました。個人的には田舎の方がアメリカらしい生活を体験できるのかな?とも思いますが、どちらも良し、楽しいことはどこにもありますね。


Highland Park Golfの「階段」 アラバマで由緒あるゴルフコース。なんと球聖ボビー・ジョーンズが14歳で初めて優勝を果たしたコースであります。この階段は、ボビーが歩いた時のまま保存されているそうで、止まった球を打ちに行っても素晴らしい出会いがあるのですね(笑)。

振り返ると


ホプキンスは、ウィリアム・オスラー先生が医学生に対しベッドサイド教育を始め、医学教育に尽力された場所で、UABは、ハリソン内科学を著したハリソン先生の生まれ故郷と最後に教鞭をとった地であり、「来た球を打つ」中で、偉大な教育者の所縁の地で過ごせたことは、感慨深いものでした。ラボの方針で学部学生さんを指導しつつ実験しましたが、その数なんと16人!こういった出会いと学びの機会を得られたことも、とても幸運でした。臨床も基礎研究も振れ幅が大きい中で過ごしていますが、共通していたのは“2つ以上のもの—「細胞と細胞」「人と人」「領域と領域」—を繋ぐ”ではないか?と思います。もしかすると、必死で「来た球を打っていた」その球がどこかに届いて繋がって・・・いたのかも知れません。来た球を打つのも大事ですが、これからは“狙ったものを繋いで—打って—新しい価値を生み出す”ことも念頭に、細胞間情報伝達を生体でクリアにみる系の確立、どこでも最新の医学情報を活用できるシステムの構築、患者-医療者間のコミュニケーションギャップを埋めるための方法、などなど多方面で挑戦したいと考えています。留学は、挑戦の一つだと思いますが、私にとっては「自分が気付いた課題への挑戦を形にする」一つの手段・方法であったと、本記事を書きながら気付きました。改めて本稿を書く機会をもらえたことに感謝致します。私の中で、まだ留学が終わってない様に感じるのは、まだまだ挑戦が続いているからなのかも知れません。自分の予想に反して硬めの文章になってしまいましたが、最後までお読み頂き、ありがとうございました!


著者略歴


2005年広島大学医学部卒業。2012年広島大学大学院博士課程修了。2015年12月〜2020年7月までジョンズ・ホプキンス大学、アラバマ大学バーミンハム校(Kano Laboratory)に研究留学し、2020年8月より現職。

連絡先:edohi@bri.niigata-u.ac.jp