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2028年LA五輪のラクロスで金メダル獲得!

Falcons Lacrosse Club

中村 弘一

UJA Gazetteでは、留学生・研究者のキャリアの多様性にフォーカスした新連載『スポーツ留学のすゝめ』を開始しました!壮大な夢を追いかけてグローバルに挑戦し続ける中村 弘一さんの奮闘記をぜひご一読ください。
UJA Operating Committee・アイデア部・財務部 森岡 和仁

私には夢があります。2028年にロサンゼルスで行われるオリンピックでラクロス日本代表主将として出場し、金メダルを獲得することです。この夢の実現を成し遂げたい理由が3つあります。1つ目の理由は、現在に至るまで、あらゆる困難の中でも支えてくれた唯一無二の存在である母へ感謝の気持ちを込めてメダルをプレゼントしたいからです。2つ目の理由は、留学中から遠距離にも関わらずずっと支えてくれた妻と目標達成の喜びを分かち合いたいからです。3つ目の理由は、ラクロスというマイナースポーツであるにも関わらず、全面的にご支援してくださるスポンサーであるダイドードリンコ株式会社の皆様、株式会社メディアドゥの藤田様へ金メダルという手土産を笑顔をとともに届けたいからです。


写真1:2018年米国Onondaga Lazersでのプレー風景(この後にゴールを決めました!!)

改めまして自己紹介をさせて頂きます。中村弘一と申します。職業はラクロス選手、趣味はラクロス、特技はラクロスです。ラクロスとの出逢いは、大学へ入学した18歳からはじまり、Youtubeで観たラクロスの迫力に魅了され、大学に部活動として創部するところから始まりました。その後、22歳で文部科学省のプログラム「トビタテ 留学JAPAN日本代表プログラム」に採択され、2年間の留学の切符を手にして、オーストラリアの大学で1シーズン、アメリカの大学で2シーズンプレーすることになりました。その後、留学を終え日本に帰国し、留学中に出会ったアメリカ人チームメイトを連れて日本全国ラクロス教室ツアーを実施し、3年間で述べ3000人の学生と交流する機会を創出しました。一方で、筑波大学男子ラクロス部のヘッドコーチとして指揮を取る機会にも恵まれ、私が海外で得た経験を多少なりとも次世代の選手たちへ還元できるよう積極的に普及活動に取り組んできました。幅広い経験を通じて自分自身のモチベーションも高まり、個人的にも現役選手として再びアメリカで挑戦する決意を固めました。幸いなことに、私の夢に共感いただいた複数の企業様から経済的なご支援を頂けることになり、多くの皆様からのサポートのおかげでアメリカ再挑戦の実現に至りました。そんな、ラクロスに熱中している1人の男の物語になります。現状に至るまでの経緯について、おおまかに「ラクロスを通じて広がった世界(国内編)」・「ラクロスを通じて広がった世界(トビタテ 留学編)」・「ラクロスを通じて広がった世界(キャリア編)」の三部構成から私の来歴をご紹介させていただきます(写真1)。


ラクロスを通じて広がった世界(国内編)


私のラクロスは18歳の時に、初めてラクロスというスポーツをYoutubeで知り、大学に部活動を作る所から始まりました。それまでは、バスケットボールに真剣に打ち込んでいたのですが、大学のバスケサークルの熱量の無さに悲しみを覚え、新しいことに挑戦してみようと思ったことがきっかけです。当時私が所属していた、中村学園大学男子ラクロス部(当時は愛好会)はまだリーグ戦に出ることもできないような、日本でも最下層に位置する弱小サークルでした。18歳当時個人で掲げた、「日本代表になり、メダル獲得を成し遂げる」。この目標達成のために環境を言い訳にせず、「自分の能力を最大化する努力を継続する」と心に決めていました。自チームの練習では、たくさん問題があり、大きな問題としては「人が練習に来ない」。日曜の午前にプレイヤー2人、マネージャー1人で練習をしたことを鮮明に覚えています。この状況の中、チームの組織作りを学ぶため、個人の技術を向上させるため、他大学の練習に参加し始めました、当時は、九州のトップチームである九州大学、西南学院大学、福岡大学など自チームでは考えられないような規模での練習の質と量を体感し、なんとかこのレベルまで自チームを引き上げることはできないかと模索しました。ただ、九州の中でのこの環境も井の中の蛙であり、日本には大きく刺激的な世界が待っていました。


次に向かった先は、関西です。当時の九州のレベルは、日本国内ではトップレベルではありませんでした。行き先を模索していたところ、たまたまフォローしていたラクロス界の某有名人が関西へ行くというツイートを見て、僕もお供させてくださいとリツイートしたことから人生が動きはじめました。それがきっかけとなり、複数のクラブチームや立命館大学など強豪大学に練習へ行く機会に恵まれました。初めて他地区のプレイヤーや先輩と練習することで、驚きもありましたが、関東でプレーしている人たちのレベルの方が、関西よりも優っているらしいと知りました。「ならば関東へ行くしかない!」と決意し、春休みに当時獨協大学の同期たちが九州遠征をしていたこともあって、獨協の友人宅を頼りながら関東に出向きました。18歳で初めて日本代表の合宿を見学しただけでなく、日本一に君臨し続けていたクラブチーム日本王者である「FALCONS」の練習に参加することが叶い、同じスポーツをしてるとは思えないぐらいの衝撃を受けました。この経験がきっかけで、日本代表を目指すようになり、FALCONSでプレーすると決めました。このように、ラクロスを通じて出会えた全国の素敵な仲間や偉大な先輩方との刺激をきっかけに「自分の未来がついに動き始めました」。ラクロスの重要な要素である—Lacrosse makes friends—文化は、「一歩踏み出すこと」「垣根を一歩だけ超えてみること」、そんな一歩から全てが始まります。


ラクロスを通して広がった世界(留学編)


「日本代表になる」と固く決意し、大学在学中4年間毎日呪文のように唱えて日々の自己研鑽に励んできました。その4年の集大成を昇華すべく22歳以下の日本代表の選考会に自薦で乗り込み、自分が地方の弱小校ながらも、負けるものかと思い挑戦しました。が、結果は惨敗。一次先行で落選。悲しさと悔しさが込み上げると同時に、いくつかの思考が生まれてきました。「同じ人間として圧倒的に超えられない壁があるわけではない」「このまま関東の選手と同じように、卒業後も関東で勝負するだけではダメだ」「勝負すれば、関東で活躍した選手以上の、成長幅を海外で獲得できるのではないか」。この悔しい落選が、海外での挑戦を志すきっかけとなり、「ラクロス留学をする」と心に決めました。その日から、あらゆる人脈を辿り、SNSでの発信などできること全てを実践した結果、オーストラリアとアメリカの受け入れ先を見付けることができたのです。ラクロスの母国は北米であり、日本は世界レベル8位とかなり遅れをとっています。メダル獲得へたどり着くためには、強国にもまれながら肩を並べられるよう、世界基準を突破するだけでなく、圧倒するレベルまでに達する必要があります。残念ながら、当時の日本チームは国際経験になかなか恵まれないという大きな課題があり、克服する必要性がありました。そこで私は、敵を倒すにはまず敵を知ることからはじめようと考え、あえて困難な道である自力での海外挑戦を選び、結果、敵を知ることができただけでなく、己を十分に知ることもできたのです。この経験のおかげで、留学中に発見した自らの無限の可能性は、日本チームに必ずや素晴らしい結果をもたらし、メダル獲得に貢献できるという強い信念が生まれました。来るオリンピックまでの限られた時間の中で、海外で最大限自らを磨き、自身の目標達成のためにはもちろんのこと、力強く背中を押してくれた支援者の皆様のためにも、ひいては日本のためにも世界レベルの選手となって必ず母国へ戻り、最高の結果をもたらしたいと切に願っています。


~まだ夢は終わらない~

写真2A & 2B:オーストラリアSA州一部リーグ優勝と年間最優秀賞受賞


世界4位であるオーストラリアでは、南オーストラリア州にある1部リーグ所属の「North Adelaide Lacrosse Club」でプレーすることが決まり、さらに不動の世界王者アメリカでは、ニューヨーク州にある全米優勝を9度(当時)成し遂げた絶対王者の「Onondaga Lazers」で米国大学リーグ(NCAA)に挑戦することができました。しかし、努力の甲斐があって理想に近い目標を設定することができたものの、達成するための手段はままならず、当時、お金がなかった私にとってスポーツ留学は、到底実現できない夢物語で終わりそうでした。ところが、文部科学省には、自分の成し遂げたいことを自由に計画して留学することができる、最大2年間返済不要の留学奨学金制度「留学支援制度トビタテ留学JAPAN日本代表プログラム」があることを発見し、即応募。夢が夢で終わらぬよう無事に採択され、見事にスポーツ留学の切符を手にすることができたのです。この機会を最大限に活かすべく、限られた時間を一秒でも無駄にしないようオーストラリアとアメリカではひたすら個人の自己研鑽に取り組みました。その結果、南オーストラリア1部リーグでは優勝、そして最優秀選手賞を受賞しました(写真2A & 2B)。

写真3A & 3B & 3C:アメリカNJCAA2連覇


さらに全米ラクロスリーグ(NJCAA)では2年連続優勝を飾るとともに、個人としてもフェイスオフランキングで6位まで上り詰めるなど、短期間で上々の結果を残すことができました(写真3A & 3B & 3C)。スポーツで結果を残すことは確かに大切なのですが、それ以上に最も価値のあった収穫は、言語と国境を超えて共に切磋琢磨できる仲間と出会えたことでした。具体的には、スポーツ留学を通じて現地で出逢った仲間たちとともに新たな挑戦へ繋がったり、これまでには感じられなかった広い視野で物ごとを考えるようになったことを改めて実感しています。このような学びを得ることは、日本にいたたまでは決してできなかったと思います。

ラクロスを通して広がった世界(キャリア編)


「日本代表になる」と決意し、18歳の時から1日も忘れることなく、自分の立てた目的実現のためだけに行動してきました。しかし、まだ「日本代表になる」目標は実現できていません。大多数の日本選手が海外での挑戦を選ばない状況の中、あえてオーストラリアとアメリカの厳しい環境で挑戦し、留学前に抱えていた課題であった技術の壁を見事に乗り越え、日本のトップチームでも十分に闘えるメンタリティを身に付けることができました。しかしながら、来るオリンピックでのメダル獲得を目指すトップチームにおける自分の立ち位置は、まだ世界レベルを圧倒するような実力を身に着けるまでには至っておらず、ライバルを知った今だからこそ、さらなる自己研鑽のために新たなチャレンジが必要だと思ったのです。それは、つまり強国アメリカとカナダのトップリーグで再挑戦することになります。掲げた目標を達成するための新たな挑戦として、さらなる成長を促すためには、自分のキャリアについて真剣に向き合う必要があります。特に自分が重要視している3つの軸は、(1)場所にとらわれず、国境を越えて仕事をすること、(2)ラクロスの成長を最大化する環境下に身を置くこと、(3)世の中に対して熱量を持って解決したい課題を解決すること、であり、この3つを実現できるキャリアを構築すべく4年間かけて行動していくことにしました。


(1)場所にとらわれず、国境を越えて仕事をすること

これは、シンプルに世界最強のアメリカ、そしてラクロスが国技のカナダに挑戦する場合、時間と待遇に制限のある中で得られるものには限界があることをスポーツ留学で既に学びました。よって、今回は「留学」ではなく「仕事」として制限なく挑戦できる環境をまずは整え、自己研鑽に集中する機会を増やす必要があります。そのためには、可能であれば渡米前に現地での職を得たいと考え必死に模索していますが、雇用にあたりビザの問題など克服すべき課題は山積みです。


(2)ラクロスの成長を最大化する環境下に身を置くこと

純粋に、人は環境によって大きく成長の幅が左右されるため、自分が最も成長できると信じた環境に身を置かなければ、期待される効果を得ることは難しいと考えています。具体的には、海外のプロチームやNCAAの選手とともにトレーニングし、シーズンオフは北米のインドア(BOX)ラクロスのプロリーグ(NLL)傘下のSr.AやSr.Bのトップチームに身を置き、一切のオフなく鍛錬を継続できる環境を確立したいと考えています。同時に、己をよく知る日本のファルコンズで客観的に成長をチェックし、足りない部分を埋め続けていくことこそが、自分の成長を最大化させることができる理想的な環境であると考えています。


(3)世の中に対して熱量を持って解決したい課題を解決すること

私が解決したい直近の課題は、実は海外ではなく、日本での課題になります。これまで覆すことが非常に困難であった関東一強の牙城を地方出身者だけで崩し、日本一を獲得して西高東低の時代を築くことになります。その理由として、やはり東京と地方との環境のギャップはとてつもなく大きなハンデとなっており、特に「技術向上の機会」と「組織作りのリソースの少なさ」の2点については克服困難な現状にあります。しかし、このままでは日本が世界を倒すレベルへ達することは厳しく、改善するための第一歩として環境改善が必要であり、まずは地域格差を無くすことから始める必要があります。前述のような自身の課題克服と並行し、自ら率先してこの2つの難題に取り組み、世界に恐れない勝利のマインドセットを日本のラクロス業界にもたらしたいと思っています。既存の概念を2028年のオリンピックまでに覆すことができればメダル獲得の実現性が高まり、結果として世界に負けない常勝の日本チームを作り上げることができると信じ邁進しています。


以上のように、目標を掲げることはもちろん誰にでもできますが、目標実現へ向けて上記3つの軸を達成するためには、これからのキャリア構築に関する欠かせない要素がいくつかあります。1つ目は、自分1人の力だけでは実現できないため、1人でも多くの賛同者、応援してくれる企業などの味方を増やすことです。世間一般の人たちからすれば、ラクロスはまだまだマイナースポーツであり、私が取り組んでいる海外挑戦や日本での普及活動は、本当にちっぽけな試みとして見えていると思います。しかし、目標は人それぞれですから、本当に自分が情熱を持って成し遂げようとする強い志さえ持って臨めば、どんなことであっても必ず道は開けるはずである、ということを自ら体現し、次世代の子どもたちに自信を持って伝ええたいという夢があります。その夢を自分の心の中に留めているだけでは、何も始まりません。夢の質や量に拘らず、とにかく声を上げることが重要なのです。この大事なことをスポーツ留学から学ぶことができ、再挑戦までの4年間にできるだけ多くの方々と出逢い、自分の夢と志、ビジョンを伝え、たくさんの共感をいただくことができました。


この試みを始めてからしばらくは、実績といえるものもなく、壮大な夢を熱く語る若者の言葉など響かないことがほとんどでした。しかし、大切なのは決して諦めないこと。どんなに苦しいことがあっても、どんなに逃げ出したくなることがあっても、諦めなれば夢は本当に現実になるんだ、という経験をしてきました。諦めてしまえばその時点で終わってしまいますが、諦めさえしなければチャンスは常に続き、耳を傾け共感してくれる唯一無二のご縁を引き寄せる結果に必ず繋がると確信しています。


2つ目の要素は、いかに巻き込む力を身につけるかです。特に社会へ出てから重要なことは、「相手が何を求め、何をされれば嬉しいのか」という適切なニーズをしっかりと汲み取ることです。もちろん、単に汲み取るだけではなく、必ず行動に移すことが重要です。それはどんな些細なことでもいいと思っていて、常に相手のことを自分の頭で考え、自分の身体で動き、とにかく結果を残すことが大切になります。つまり、行動と姿勢が人々の共感を生み、信頼が蓄積され、応援してもらえる結果を導くことができると信じましょう。


最後は、人と信頼関係を構築するにあたり、結果・実績・数字・お金といった付随するものではなく、その人が抱く情熱・志・人間性という本質こそが評価されるという事実です。自分を信じて行動を続けることにより、本当に少しずつではありますが、回を重ねるごとに賛同してくれる人や企業の方が増えていきました。その結果、一緒にプロジェクトを進められる仲間が世界中にできたり、英語を活用して新しいサービスを生み出すことへ繋がったりました。具体的には、ソフトバンクグループ株式会社、ダイドードリンコ株式会社、株式会社メディアドゥ、テレコムスクエア株式会社といった超一流企業の皆様とコラボさせて頂けるようになったのです。こんな未熟な若者であっても自分を理解してくれ、夢を応援してくださる人々が垣根を越えて増えていってくれる幸せを感じ、自分の挑戦がますます熱くなってきています。


以上が、夢とボールを追いかけるラクロス選手こと中村 弘一のこれまでの生きざまとその後の展望になります。最後に伝えたいことは、人生のどこかで本当にやりたいことが見付かった時、そのやりたいことに向かって勇気を出して一歩を踏み出せるかどうか、が最も重要なのです。しかし、相談した人から「どうせ無理だよ」と心無いことを言われることがあるかもしれません。「無理かどうかはやってみないとわからない。やったことのない人に限って、無理だと言う。実際にやってきた人たちは決して無理とは言わない。諦めなければ夢は継続され、いつか現実となる」。人生は、あっという間に終わってしまいます。そんな人生の貴重な時間を、自分のやりたいことや熱中できることに費やせる時間が多ければ多いほど人生は充実し、結果的に世界はより良くなっていくと思います。そんな人が1人でも増えることを信じ、私は今日も自分の道を切り開いています。どこかで私を見つけたら、気軽に声をかけてください。皆様、引き続きどうぞよろしくお願い申し上げます。


謝辞


ボストンの「夢を語れ」でラーメンを食べながら夢を聞いていただき、『スポーツ留学のすゝめ』第一弾として執筆の機会を与えてくださいましたUCSFの森岡和仁さん、文部科学省トビタテ 留学JAPANプログラムの事務局の皆さん、どんな困難に遭遇してもここまで一緒に歩んでくれた家族に、心からの感謝の意を表します。

著者略歴

写真4:著者近影

中村弘一 (Koichi Nakamura)


1993年福岡県北九州市生まれ。文部科学省トビタテ留学JAPAN日本代表プログラム4期生。MAKERS UNIVERSITY 5期生。North Adelaide Lacrosse Club (2016年)Onondaga Lazers (2017-2018年)Falcons Lacrosse Club(2019-2020年)

スポンサー:ダイドードリンコ 株式会社、株式会社メディアドゥ。



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