国際開発のすゝめ 第1回 なぜアフリカでのエンパワーメントなのか?~幼少期から学生時代を振り返ってみえてきたもの~

国際開発のすゝめ シリーズ1 グローバル社会課題をいかに克服するか 株式会社Darajapn

角田 弥央

 今号から、国連サミットで提言された持続可能な開発目標Sustainable Development Goals(SDGs)に取り組む留学生や研究者の活動を紹介する『国際開発のすゝめ』を始めました。第1弾は、タンザニアでのエンパワーメントで活躍中の角田さんに連載してもらいます。
UJA Operating Committee・アイデア部・財務部 森岡 和仁

“現地住民エンパワーメント”の実現を目指して、アフリカを拠点に活動している角田弥央です。日本生まれ・日本育ち、20歳になるまでは視野の狭い人間でしたが、自分の意志で海外に飛び立ったのをきっかけに、日本から世界へと視点が変わりました。バックパッカーで35ヵ国の医療施設を視察、製薬会社でのインターンシップ留学、日本薬学生連盟での交換留学委員長など、様々な国際的な実体験から新興国で活動することを決意。薬学部卒業後、大手メガベンチャーの海外事業部にて人材分野の法人営業に従事。その後独立し、現在はタンザニアを拠点として、「アフリカと日本の架け橋に」に精進しています。医療者、経営者、日本人、一人の人間として、「生まれた環境に左右されることで夢を実現できない人々にどのように貢献できるのか」について日々考え、行動し続けています。人と人を繋ぐことはもちろん、現地住民一人ひとりが生まれ育った環境から、何を感じているのかを汲み取った上で“現地の人々と共に考え、一緒に創り上げていく”必要があると考えています。


このような想いや現在の活動に至った経緯には、私の幼少期からの経験と環境、人との出逢いが強く影響しています。その経験や背景をお伝えしながら、様々な社会課題がはびこるアフリカでの現状と、現在進行形のグローバルな社会課題への取り組みについて、3回の連載でお伝えしていきます。


第1回は、幼少期から大学生時代を振り返り、自分自身と葛藤しながら生きてきた軌跡と、現在の活動に至った経緯を振り返りたいと思います


「何でもできるんだね」―幼少期の葛藤―

厳しい練習をこなしながら競泳に没頭していた(小学1年生)

幼少期に自分が何を感じていたか?人一倍豊かだった私は、幼少期からすでに感じていた“社会に対する違和感”を今でも記憶しています。それは、「出る杭は打たれる」という言葉のように、日本社会に根強く残る「周囲からの評価」を異常に気にし続けたため、さまざまな葛藤が、当時からあったように思います。



上級生クラスのトライアスロン大会で初受賞

幼少期、最も力を注いでいたのが競泳でした。気付いた頃にはクラブチームの選手コースで泳いでいて、小学1年生の時点で大学生や社会人と同じ練習量をこなしていたおかげもあり、現在のタフネスを養うことができました。上下関係なく、努力と結果で評価される環境に心地よさを感じ、さらに陸上競技やトライアスロン、テニスといった、様々な競技にも挑戦しました。努力すれ報われると信じていた私は、人一倍努力することで数々の結果を残し、いつの間にか人から賞賛されることをモチベーションとしていました。


しかし、順調であった日々は長く続かず、4年生時に突然の膝痛に悩まされ、半月板損傷という完治しない痛みとの長い付き合いが始まりました。スポーツだけではなく、日常生活への影響も大きく、初めての挫折になりました。しかし、辛かった日々を思い返すと、小学生ながら「どうしようもできないことが沢山ある」という発見があり、メンタルの成長へ繋がったと思います。

和太鼓やビックバンドク ラブでの演奏

私の好奇心は、スポーツだけではなく音楽にも広がりました。伝統文化が残る東京の下町で幼少期を過ごしたこともあり、お囃子や雷神太鼓といった和太鼓を叩く機会に恵まれました。また、区のビックバンドクラブに所属してユーフォニアムという楽器も始めました。卒業までに部長も務め、様々な大舞台での演奏経験をしました。


文武両道を実践すべく、成績は常にオール5、いわゆる“優等生”というラベルを自分に貼りながら勉強していました。順風満帆に見える一方、同級生から妬まれていじめに合う機会も少なくなく、上履きの中に画鋲や悪口の書かれた手紙が入っていたことは数知れず-そんな状況でも常に明るく振舞い、“優等生”を演じていました。振り返ってみると、常に周囲からの期待に応えるべく、何をしても周りに認められるために行動している小学生でした。しかし、心の中では“自分が感じたことを思うまま取り組みたい”という本音と、周囲のためにその気持ちを抑圧して模範的に生きなければならない建前の狭間でフラストレーションを溜めてしまっていました。


転校~理想と現実のギャップ

幼少期、最も力を注いでいたのが競泳でした。気付いた頃にはクラブチームの選手コースで泳いでいて、小学1年生の時点で大学生や社会人と同じ練習量をこなしていたおかげもあり、現在のタフネスを養うことができました。上下関係なく、努力と結果で評価される環境に心地よさを感じ、さらに陸上競技やトライアスロン、テニスといった、様々な競技にも挑戦しました。努力すれ報われると信じていた私は、人一倍努力することで数々の結果を残し、いつの間にか人から賞賛されることをモチベーションとしていました。 しかし、順調であった日々は長く続かず、4年生時に突然の膝痛に悩まされ、半月板損傷という完治しない痛みとの長い付き合いが始まりました。スポーツだけではなく、日常生活への影響も大きく、初めての挫折になりました。しかし、辛かった日々を思い返すと、小学生ながら「どうしようもできないことが沢山ある」という発見があり、メンタルの成長へ繋がったと思います。

人格形成には、家庭環境が重要な要素になります。両親が共働きであったため、家族よりも友人や独りでいることが多い生活でした。常に憧れの存在であった3歳年上の姉は、当時全国や国際大会で数々の結果を残し、プロテニスプレーヤーとして有望視されていました。自身と姉を比較し、「一つのことに集中できず、ずば抜けた成果を残せない」という劣等感を勝手に抱き、「姉はスポーツ、私は勉強」と勝手にレッテルを貼り、自分を追い込んでいました。


受験は過度なプレッシャーを受け、劣等感を抱きながらでは、もちろん上手くいかず。第一志望には届かず、私立の中高一貫女子校か地元の公立中学校へ行くか迷いましたが、母の希望もあり前者へ進学しました。進学後、成績だけは学年で常にトップ、学級委員長を務めましたが、気に入らないことがあれば先生にも容赦なく物を申し、学校から呼び出されてしまう厄介な存在でした。


家庭でも喧嘩が絶えず、「勉強だけしていればいい」という母の口癖がフラストレーションを増悪させ自暴自棄に。「通いたくない学校へ学費を6年間払ってまで通う意味はあるのか」と自問自答し、2年生に進学する前に、「地元の公立校に転校したい」と父に相談しました。父は賛成した一方で、母は「おしとやかな女性に育てるために私立の女子校に入れたのに」と反対。それで、現状をどうしても変えたいと思った私は、公立の中学校へ転校することに決断しました。


しかし環境を変えても物事がすべて好転するとは限りません。まずは友達を作ろうと意気込んだのですが、転校生というだけで目立ってしまい、話したこともない同級生から悪口を言われたり、事実でない噂を流されたり。この時、「自分はやはり他の人と違う」「社会のフレームワークから飛び出る人は叩かれる」という、疎外感を抱いたのを覚えています。


そんな複雑な想いを抱えながらも、相変わらず文武両道の努力は続けていました。母に反対されていた競泳や陸上競技を再開するも、特別な結果は残せず。図書館に毎日通い、成績は相変わらずオール5を継続。しかし、心が満たされることは決してなく、明確な目的も見つからず、もやもやしたままの転校生活。内申点はよく、都立の進学校を推薦受験したものの不合格。思い描ける未来の希望を持てないまま二次募集を受験し、進学校である近所の都立高校を選びました。


葛藤と戦った高校生活


転校生活から、理想と現実のギャップを解消できぬまま、人と関わることをできるだけ避け、なんとなくスポーツと勉強をする3年間を過ごしました。大学受験に身が入らず、どの大学に行くか自分の意思で決められずにいました。しかし、海洋生物を撮影する父の仕事を手伝うようになってから生物、化学、物理の参考書を読むようになり、自然と理系を選択していました。さらに、さまざまなスポーツ経験から自分の精神的・肉体的限界と向き合う習慣が身体に染みついていたことより、興味と長所を活かせる進学先として防衛大学校の幹部候補生コースを受験しました。当時は、自身が抱いていた劣等感を“国のために働く”ことによって克服できるかもしれないと思っていたのでしょう。無事に合格し、入寮の準備を進めていたある日、とある海外のニュースを聞いて入学する気持ちが揺らいでしまったのです。当時、北朝鮮と韓国の対立に関する海外の情報がさかんに報じられていたのですが、これまで他人事として聞き流していました。しかし、当事者として国際情勢を捉え始め、見聞の乏しさを知るとともに、「本当にやりたいことは何なのか」という疑心暗鬼が生まれ、以降、無知なまま先に進む不安から、入寮3日前に浪人を決断しました。


どん底を味わった浪人時代


両親の期待を裏切ってきたあげく、自分のワガママで決めた選択でしたが、辛い一年間を過ごすことになりました。向き合ってこなかった心の葛藤がついに爆発。人のせいにしてきた自分と、学ぶ目的のない自分が共存できなくなり、「生きている意味がない」という絶望感へ辿り着いてしまったのです。勉強が手につかない日々が続き、心療内科を受診し、「うつ病」と診断されました。「将来どうしたいのか」「何を目指して生きていけばよいのか」を相談できる存在がおらず、孤独で人生のどん底にいました。

タンザニアのNGO団体で共に活動するママコミュニティ

幸運にも一人の医師との出逢いが、私の人生の転機となったのです。当時は珍しい治療法であった「瞑想・運動・食事療法を用いて心のケア」を実践していた先生は、ドイツで医学を学び、カウンセリングの合間に海外の医療体制や情勢などについて話してくれました。私にとってはすべてが新鮮で、大げさですが、当時の私にとっては、カウンセリングが一つの生きる希望になっていました。そして、「なぜ精神疾患に対して医薬品を使わないんだろう」という漠然とした疑問から「医薬品とはそもそも何なのか」を考えるようになりました。と同時に、幼少期から大事にしてきた「好奇心の赴くままに挑戦する」「自分の意志で決めていく」という“感覚”を取り戻せただけではなく、ようやく目的を持って「学ぶこと」に向き合えるようになったのです。その後は、薬学部を目指し、何とか進学することができました。


以上が、私の経緯で、現在の自分を支える大きな原動力となっています。紆余曲折を経て社会課題に向き合い、起業家として活動しているわけですが、やはり「生まれ育った環境」「幼少期に感じていた違和感」が現在も考え方や行動に影響を与えています。目まぐるしく変化する世界情勢において、自分の意志決定に責任を持てるか、長期的な体力を持っているか、好奇心の赴くまま色んな分野に跨り興味を持てるか、信念を持って没頭できるものを見つけられるか。これまでを振り返り自己分析をすることは、必ず今後に活かされます。


グローバルに物事を考えるのに遅すぎることはありません。前述のとおり、当時の私は、日本社会の枠組みでしか物事を捉えられず、本当に視野が狭かったと思います。浪人時代までグローバルな視点を持たず、体験者の話を伺ったり、自分自身で実際に経験したり、試行錯誤しない限りは、行動へ移せなかったと実感しています。大学生になってから初めて活動拠点を“国内"から“国外"へ移せたのですが、大学時代のある出来事がきっかけとなりました。


次回は、新興国での活動に繋がる大学時代を振り返りつつ、留学経験からグローバルな活動に目覚めた経緯についてお伝えし、国際開発の真髄へ触れていきたいと思います。お楽しみに!


著者略歴

角田 弥央 株式会社Darajapn代表取締役/TANZHON Ltd.共同創業者


明治薬科大学在籍中、アジア・アフリカ・ヨーロッパ計35か国の病院・薬局・製薬会社を視察・訪問し、医療システム・薬剤師の職能について調査。海外と日本における後発医薬品の製剤比較を研究。

英国University of Hertfordshire にて、英国薬剤師免許取得コース(OSPAP)に参画。エジプト製薬会社Amoun Companyの製造・品質管理部門にて、後発医薬品の製剤開発に従事。Roshdy farmacyと連携し、偽薬の市場調査と教育プログラムを企画。


その後、タンザニア国営貿易会社にて、中国との港湾インフラプロジェクトにおける衛生環境調査に従事。国家資格薬剤師免許取得後、株式会社ネオキャリア海外事業部にて外国人雇用支援、法人営業に携わる。現在は独立し、タンザニアのビジネスパートナーと共に森林伐採削減×衛生環境改善のためのバイオマス事業、を立ち上げ、現在シード。