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ベイエリアで再び得た「さんま」

早稲田大学

広瀬 統一

【研究室紹介】
2008年から今年の東京オリンピックまで、長きに渡りなでしこジャパン(サッカー日本女子代表)のフィジカルコーチを務めながら、スポーツ活動中の怪我を予防して日本人の運動能力の向上を目指す広瀬先生の留学体験談と研究室紹介をぜひご一読ください。
UJA Operating Committee・アイデア部・財務部 森岡 和仁

「さんま」、ありますか?


最近の日本では、子どもの社会性や基礎体力の低下要因として「さんま(三間)」がなくなったことによる外遊びの減少が大きく影響しているといわれています。この三つの間とは「時間・空間・仲間」を意味します。この三つの間、日本では大人でも失われているように思います。そのために生活のなかでの「遊び」が少なくなり、自由な発想やチャレンジ精神、そして多様な感性が失われつつあるように感じています。


サンノゼを中心としたベイエリアでの留学生活で、私はそのことに気づきました。留学を振り返ると、自由な時間、カリフォルニアの開放的な空間、そして何より私の感性を大きく揺さぶってくれた多くの仲間たちとの出会いが、改めて遊び心のある自分を取り戻してくれたように思います。本誌を手に取る多くの方がそうであるように、私も米国ではちょっとした困難に遭遇しました。そんな困難も、自己を再確立する上では大事な経験です。私の経験のすべてをご紹介することはできませんが、少しでも興味を持っていただき、さらなる情報交換の機会につなげたいと思っています。



臨床と研究の両立|アスレティックトレーニング研究室|


皆さんは「アスレティックトレーニング」という研究分野をご存知でしょうか?アスレティックトレーニングとは、アスレティックトレーナーと呼ばれるアスリートの医科学支援を行う専門家の活動に関する学問領域です。米国では傷害(外傷・障害)や疾患の予防とウェルネスの保護、救急処置、治療やリハビリテーションを担う専門家と位置付けられており、日本でも傷害予防やコンディショニング(体調管理)、傷害からの競技復帰支援や応急対応などを担います。日本では、2012年に日本アスレティックトレーニング学会が設立され、学問としてはまだ10年程度の歴史しかありません。


私が主宰するアスレティックトレーニング研究室で重視していることは「研究と現場を結ぶこと」です。研究室の学生や研究員は全員、研究者であると同時に臨床家や指導者でもあります。研究で得られた科学的知見をもとに支援活動を行うと同時に、臨床現場の課題解決や発展のためにどのような研究を行うべきかを議論し、研究活動を進めています。この哲学は、私自身の経歴からくるものでもあります。私は大学でスポーツ科学を学んだ後、ユースサッカーチームのフィジカルコーチとして10年間のキャリアと並行して大学院で研究活動を行っていました。そして、2006年に大学教員の道に進みましたが、2008年からはサッカー女子日本代表チームのフィジカルコーチとして現場での指導を続けています。学生たちもスポーツ現場での指導と研究を密接につなげる意義や難しさを経験しているようですが、学生が研究室の哲学をロゴにしてくれたことは、みんなが臨床と研究の両立を楽しんでくれている表れだと信じています。


傷害からの早期復帰から傷害予防へ


私の研究室では、主にスポーツ傷害の予防方法に関する研究を行っています。スポーツ傷害を予防するためには、①疫学的検討、②発症メカニズムと要因分析、③メカニズムと要因改善のプログラム開発と介入、④効果検証、の4つのサイクルを回していくことが必要です。このなかでもメカニズムや要因分析、そして介入による効検証を、ハムストリング肉離れ、足関節内返し捻挫などを対象に行っています。また、現在では各種のウェアラブルデバイスを用いて身体負荷を定量化し、スポーツ活動と日常活動の動態も把握しながら傷害予防や再発予防のプログラム開発を進めています。


これまでに多くの研究者がスポーツ傷害予防のプログラム開発を行っており、適切なプログラム介入により傷害発症率が半減することも多く報告されています。しかし、現実世界ではスポーツ傷害の発症は減っていません。この科学と現実世界のギャップが生じている要因を分析して、ギャップを埋めるための活動にも取り組んでいます。



視野が広がったベイエリアでの生活


2015年9月から1年間のベイエリアでの生活は、私の視野を大きく広げてくれました。


再認識した「意志」の重要性

写真1:「ベイエリア整形外科の会」での勉強会:一番左の前列が鶴池先生で後列が筆者

サンノゼ州立大学の鶴池柾叡先生の研究室で過ごした留学期間中には、研究にとどまらず、私が生きていくうえで大事なことが沢山あることを改めて気づかせてくれました。その一つが「意志」の重要性であり、Yoshihiro Uchida先生からそれを学びました。日系二世で柔道家であるUchida先生は、米国に柔道を広めた第一人者であり、1964年の東京オリンピックの米国柔道選手団のコーチでもある方です。90歳を過ぎた今でも毎日のようにサンノゼ州立大学の柔道場で学生指導をしている姿から、改めて人に何ができるかは年齢ではなく意志であることを痛感しました。同じことを私の滞在先のホストからも学びました。彼は60歳を過ぎてから仕事をやめ、かねてからの夢である獣医師の資格を取りに大学に入学しなおしています。意志あるところに道はひらけることを実体験として学んだことは、私がこれからの人生をどのように生きるかを考える上での重要な指針になっています。


Uchida先生に強く求められた「米国のよいところを学び、日本を発展させて欲しい。日本にはまだまだ可能性がある。ぜひ、日本を世界の中でもっとリーダーシップのとれる国にしてほしい」という言葉が、今でも心に強く残っています。


人と環境の多様性が思い出させてくれた研究の楽しさ


ベイエリアが様々な人種で構成されていることに加えて、私がこれまで出会えていなかった多様な業種や価値観の人たちと語らえたことも、視野を大きく広げてくれました。


米国には高校レベルからプロレベルまで幅広い競技スポーツ環境があり、一般に向けたフィットネスジムを含め、様々な環境で活動するアスレティックトレーナーがいます。大学ではディビジョンによっても環境は大きく異なります。日本では米国の最上の環境だけが情報として入りますが、必ずしもそうではない実態があることを知れたことは、断片的な点の情報ではなく、複数の情報をもとにした線あるいは面で物事をとらえる重要性を再認識させてくれました。米国の特徴や日本との違いについて、毎日のように鶴池先生や多くのアスレティックトレーナー、そしてベイエリア日本人整形外科の会など様々な仲間たちと議論できたことが、分析視点の広さにつながったことはいうまでもありません。


さらに留学期間中に与えられた、自分自身や研究対象と深く向き合う時間も貴重でした。留学中には実験室内で筋電図解析を主とした研究をいくつか行いました。得られたデータの解釈について自身で深く考え、仲間と繰り返し議論を重ねられたことは、研究の面白さを再認識させてくれる大切な機会でした。考察に行き詰ったときに何度もおこなったカリフォルニアの空の下での「心の開放!」。この時間に神が下りてきたかのように様々なアイデアが生まれたのは間違いありません。日本でも同様の環境ができないかと試行錯誤しています。


主体的で包括的なチャレンジ


ベイエリアでの留学生活を通じてもう一つ学んだことが、自身で課題を定義し、自らが解決に臨むこと、そして多様な年代の仲間とともに課題に取り組む重要性です。


写真2:サンノゼ州立大学の中庭:この青い空の下で得たひらめきに救われました

カリフォルニア州では、他州では免許として認められているアスレティックトレーナーが正式には認められていません。そのため、“Hit the Hill”と称したロビー活動を毎年行っています。2016年には私も参加させてもらい、複数名がグループとなって分担して議員へ陳情に行きましたが、同じグループには資格を未取得の学生もいました。学生が含まれている理由をリーダーに尋ねたところ、ロビー活動が長期化したとき、将来は若者が中心に活動することになるため、今から当事者意識をもってもらうためだそうです。また、陳情先の議員からは課題が大きくなればなるほど、多くの仲間を集めて向き合う必要性についても教えられました。


このような主体的で包括的な活動がこれからの社会で求められるであろうことは、ベイエリアで知り合った投資家からも学びました。その方から投資対象を決めるときの基準を聞いたところ、「本気で世界をもっとよくできると考えていること。そのための戦略に投資対象が合致していること」と教えてもらいました。加えて、失敗を乗り越えた経験があることも考慮しているという話でした。このように世界を変えるという大きなエネルギーをもって課題解決にチャレンジすることは、誰でも今からでも意志さえあればできることです。改めて自分自身を奮い立たせたことを覚えています。



サッカー仲間が豊かにしてくれた人生


写真3:稲妻ジャパンメンバーと:今でもメンバーの皆さんにはBBQやキャンピングなど楽しい時間をいただいています!

本誌を読んでいる皆さんと同じように、留学中にはちょっとした困難にも直面しました。そのなかでも前向きに進んでいけた要因の一つに、子どもたちとのサッカーがありました。留学中には「稲妻ジャパン」というチームと、Springbridge International Schoolの子どもたちを対象にサッカーのコーチを務めさせてもらいました。心からサッカーを楽しむ子どもたちと一緒にいる時間や、ボランティアでコーチやチーム運営をしているお父さんやお母さんたちとの語らいの時間が、私の米国での時間をしなやかで豊かにしてくれたことは間違いありません。米国で活躍している人たちだからこそもつ考え方は、多くのことを気づかせてくれました。この気づきが帰国後の今でも、COVID-19による予測困難な状況でも自分自身を保つためにとても役立っています。サンノゼに行った際には、いつもとても楽しい時間を過ごさせてもらっています。



深化と探索|スポーツ科学を通じた持続可能な社会への貢献|


帰国後の現在は、大学での教育・研究、なでしこジャパンの強化支援を継続しています。これまでの支援内容に加えて、各種ウェアラブルデバイスを用いたモニタリングやIoTを活用することにより、支援の深化を進めています。研究では、サンノゼ州立大学で行った研究成果をもとに、女子サッカー選手で増えつつあるハムストリング肉離れ予防のトレーニングプログラムと、企業との共同研究によるデバイス開発に着手しています。また、スポーツ科学分野から子どもたちの健全育成や中高年の心身最適化に貢献するために、運動プログラム開発と指導にもあたっています。


さらに、日本のスポーツ現場における課題解決に向けた取り組みや、これまでアスリートを対象に培った知見を広く社会に還元すべく、様々な社会活動にもチャレンジしています。2018年からは日本アスレティックトレーニング学会の代表理事として、日本のスポーツ現場の安全と安心に資するための他学会と共同した「スポーツ外傷・傷害・疾病調査フォーマットの標準化」プロジェクトや、総合型地域スポーツクラブと連携した中学校部活動でのアスレティックトレーナー支援事業などの社会活動も開始しています。2021年には、スポーツ科学がテクノロジーと融合して持続的に成長可能な社会の創生に貢献することをビジョンに掲げて、企業、自治体、臨床家らと社会実装するための共同体形成にチャレンジしています。このようにスポーツやスポーツ科学の貢献可能性を探索する活動を広く開始しているところです。


ぜひ、多様な分野の研究者の皆さんと、どのように研究成果を社会還元できるか、議論したいと思っています。


以上



著者略歴


1997年早稲田大学人間科学部卒業。2004年東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。2006年早稲田大学スポーツ科学学術院客員講師、専任講師、准教授を経て2015年より教授。東京ヴェルディ1969、名古屋グランパスエイト、京都サンガ、ジェフ千葉のユースアカデミーのフィジカルコーチを歴任。2008年からはサッカー女子日本代表のフィジカルコーチを務める。 連絡先:toitsu_hirose@waseda.jp 研究室ホームページ:https://hirose-labo.jimdofree.com/ Facebook:/hirosenorikazu Instagram:nori1hirose


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