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私にしかできないことを探して

小林 沙羅


こんにちは。サイエンスイラストレーター/アニメーションクリエイターの小林沙羅です。 UJAではプロジェクトマネージャーとしてお手伝いをさせてもらっています。 「サイエンスイラストレーター?」と「?」つきのリアクションをされることが多いので、今回は私がサイエンスイラスト・アニメーションを始めたきっかけや今に至るまでのキャリアについて書いてみたいと思います。



進路はどうする?大学に入るまで

写真1:実家の裏手から見える磐梯山

生まれは福島県猪苗代町、磐梯山と猪苗代湖を眺めながら育ちました(図1)。


当時からちょっと変わっていて、周りの友達がお人形で遊ぶ中、トリケラトプスのぬいぐるみがお気に入りで、トカゲやイモリを捕まえて遊んだりしていました。


絵を描くのは小さい頃から好きで、特に中学校に入ってからはよく気に入ったイラストや写真の模写をしていました。でも中学生の当時、クラスには絵の上手い子が2人くらいいて、「あー私は熱意も技術も全然足りないんだなー。イラストで生活するのは大変だと聞いたことがあるし、趣味にとどめておこう」などとぼんやり思っていました。中学生になっても相変わらず恐竜は好きで、進路を考える授業で配られたプリントには「古生物学者になりたい」と書いた気がします。



高校では、生物の授業の中でも分子生物学のところにビビッときました。自分が座って授業を受けているその間にも、体の中では数え切れないほどの小さな分子たちが絶え間なく動いて私の体を維持してくれているんだと思うと、自分の中に小さな宇宙があるような気持ちになりました。


また、iPS細胞でノーベル賞を受賞された山中伸弥先生の講演を聞きに行ったりスーパーサイエンスハイスクール(SSH)のプロジェクトで研究(っぽいの)に取り組んだりしていく中で、次第に大学では分子生物学を学びたい、研究者になりたいと思うようになりました。高校では大学受験のためガリガリ勉強していたので、絵を描く時間(と心の余裕)はどんどんなくなっていきました。



筑波大学生物学類に入学・・・私は何がやりたいんだっけ?


(いろいろあったけど)やっと受験も乗り越え、晴れてキャンパスライフスタート!と思ったのも束の間...生物の授業の最低受講者がたった6人だった高校時代から一転、自分より“できる”人が大勢いる環境に放り込まれました。実験のやり方、取り組む姿勢、考察の鋭さなど、自分との大きな差を目の当たりにして、自分のような人間は研究者に向いていないのかも…と思い始め、別なところにアイデンティティを求め始めます。



そんな時、大学でサイエンスコミュニケーション団体を見つけます。そこでは小中学生向け実験のワークショップの企画・運営、テレビ出演、SNSの運用など幅広い活動をかなり自由にやらせてもらいました。振り返ってみると、この時から少しずつ科学コミュニケーションに興味を持ち始めた気がします。


また在籍当時、筑波大学には科学コミュニケーションに関連する授業がいくつかありました。そのうち特に印象に残っているのが「サイエンスライティング」と「サイエンスビジュアリゼーション」の授業です。(カタカナ多いですね...)



サイエンスライティングの授業は、プロのサイエンスライターの方を講師にお招きして指導を受けながら、研究者にインタビューし、その内容をウェブ記事にするというものでした。質問の構成や、研究内容の下調べ、インタビュー、文字起こし、記事執筆という一連の流れを経験しました。記事の添削では赤字だらけになって返ってきて激しくショックを受けましたが、そのおかげで文章や言葉についてより深く考えて書くと習慣が身につきました。何より研究者が生き生きと自分の人生や研究について語っているのを目にして感激で心が震えたことをよく覚えています。また、自分の文章が学部のウェブサイト上で公開されているのを見たとき、なんだか誇らしい気持ちになりました(リンク)。


当時書いた記事


もう一つの授業、サイエンスビジュアリゼーションは、医学医療系・生命環境系・芸術系が合同で開講している少し異色な授業でした。筑波大学は1つのキャンパスにさまざまな学部が集まっているので、もしかしたらこういった学部間のコラボがしやすいのかもしれません。この授業ではサイエンスビジュアリゼーションの概要やイラストソフトの使い方などを学び、提示された科学的なテーマを視覚的に表現するというものでした。それまでサイエンスビジュアリゼーションという分野があるということ自体知らなかったので、とても新鮮な授業で、また芸術系の学生さんとチームを組んでディスカッションしたとき、いかに物事の見方が人によって異なっているのか実感しました。


このほかにも、サイエンスコミュニケーションの授業で漫画を描いたり、サイエンスコミュニケーション研修としてオーストラリアの大学や科学館に行く機会があったりと、サイエンスコミュニケーションや科学を絵や文章で表現することに傾倒していきました。



卒業研究している時、人生の転機が!


気楽で自由なキャンパスライフから一転、4年生になって卒業研究が始まると、1日の大半を研究室で過ごすようになります。研究テーマや実験はとても面白くやりがいのあるものでしたが、数ヶ月もすると外の世界と隔たりができた気がして少し息が詰まってきました。


そんなとき、人生を変える動画に出会います。それは科学のテーマを扱ったアニメーション動画で、科学的な背景や知識を視覚的にわかりやすく伝えたあと、視聴者にあなたならどう考えるかを問いかけるような内容でした。


グラフィックの視覚的なわかりやすさや美しさ、ユーモアのあるストーリー構成に、強い衝撃を受けました。その動画は英語だったので、日本語でも同じような動画がないか探しました。しかし、その当時YouTubeで「科学」「解説」などと検索して出てくるのは、研究者のインタビューや講演動画、教育系動画など、実写が多く、科学に関する(特にモーショングラフィックを使った)アニメーション動画はありませんでした。「日本語でも私が衝撃を受けた動画と同じような動画がもっとあればいいのに...」と少しがっかりしたのを覚えています。そのとき、なぜか私はがっかりするにとどまらず、「ないなら私が作ってやろう!」と謎に意気込みました。アニメーションを作るスキルは、ゼロでした。


モーショングラフィックを使ったアニメーションの作り方に全く見当がつかなかった私は、まず芸術系で動画を専門としている先生に会いに行き、どんなソフトを使ったらよいか、どんなふうにアニメーション作りを始めたらよいかなど、あらゆることを聞きまくりました。お忙しいにもかかわらず他学部の一介の学生の話を拒まずに聞き、丁寧なアドバイスをしてくださった先生には感謝しかありません。


そうしてアニメーションを作り始めたはいいものの...ソフトの使い方を覚えるのに超苦戦。全然できるようになりません。そこで次は、卒業研究をしていた研究室の先生に相談に行き、アニメーション作りをする時間をもらえないかと伝えました。1年しかない卒業研究期間にもかかわらず、約1ヶ月の練習期間をいただいた上、その後もアニメーションを作る時間を確保できるようにと実験の待ち時間が長い研究テーマに変更してもらいました。


それからは、研究室で実験を仕掛け、待ち時間に芸術系の先生に動画を指導してもらったり、科学コミュニケーション団体の顧問の先生にストーリー構成のアドバイスをもらったりと、学内を走り回っているうちに月日が過ぎていきました。そして、最終的には卒業研究発表会の場でアニメーションを使ったプレゼンをすることができました。



卒業研究の発表を観た人たちから好評の声をもらったりするうちに、実験の合間ではなくもっと本腰を入れてアニメーションを作りたいと強く思うようになりました。それまで「絵は好きだけど、それで生活するのは私には無理だろう」と思っていましたが、この頃からサイエンスと絵を掛け合わせれば、私にしかできないことをやれるかもしれないと思うようになりました。そして、卒業後進学予定だった医学系の大学院を休学し、アニメーション制作のスキルを磨くことにしました。


休学してしばらく経った時、大学の産学連携本部であるプロジェクトが立ち上がりました。大学の研究特許をプロモーションするための動画を作るものです。アニメーションの指導をしてもらった先生からこのプロジェクトに誘ってもらい、芸術系の学生に混じってプロジェクトをいくつかやらせてもらえることになりました。せっかくなら自分が学んだ知識を活かせるプロジェクトにしようと、生物学に関係するものを担当させてもらいました。


そのプロジェクトでは、研究者へのヒアリングからシナリオ作成、イラスト・アニメーション作成、音楽選定まで制作全般を1人で担当したので、さまざまな制作工程を経験することができました。また、学部の授業や研究室で得た知識を活かして、研究の重要なポイントや分子が機能するメカニズムが的確に表現できていたようで、あるプロジェクトでは、研究者の方から「研究内容をこれだけ正確にアニメーションに落とし込み、視覚的にわかりやすく表現しているのは素晴らしい」というありがたいお言葉をもらいました。やりがいをこんなに感じたことは、それまで生きてきた中で初めてのことでした。



最初に担当したプロジェクトは、筑波大学 国際統合睡眠医科学研究機構(WPI-IIIS、通称IIIS)というところで行われた研究に関するものでした。プロジェクトを進めていく中で、IIISの広報の方と繋がり、なんと「そこの広報のポストに空きが出たからよかったら」と声をかけてもらいました。無事に採用され、広報担当として社会人生活がスタートしました。


IIISでは、取材アレンジや見学者対応、イベントの企画・運営などの広報の仕事のほかに、プレスリリース用のイラストやノベルティのデザインなども担当しました。また、IIISに在籍する人の約3割が日本語ノンネイティブだったため、英語でアナウンスしたりメールを送る機会が多く、英語の能力も鍛えられました。



大変だったことも・・・


ここまでなんだかちょっとうまくいきすぎな感じで書いてきましたが、けっこう苦しい時期ももちろんありました、山ほど。


広報として働くことを決めた背景には、実は少し悔しい思いもありました。休学し始めた頃の私は、「サイエンス×アニメーションというかなりニッチなことをしているのだから、科学の知識とアニメーションのスキルを頑張って磨いていけば、仕事の依頼もそのうちきっとくるだろ〜」くらいに考えていました。


しかし、当時の私には人との繋がりがあまりにも少なすぎました。実績として出せる作品もほとんどなく、引きこもり状態の学生にわざわざお金を払って依頼してくれる人は、もちろんいません。さらに、誰とも話さずにずっと一人で引きこもっていたため、思考はあれよあれよとネガティブに。心を病みました。精神がどんどん不安定になり、休学の本来の目的だったアニメーション作りに打ち込めない日が多くなってしまいました。


「このままではいかん。アニメーションのスキルはもちろん、人との繋がりも社会での経験値も全然なさすぎる」と思い、そんな折どんぴしゃりなタイミングで声をかけてもらった広報の仕事を通して、まずは経験を積もうと決意したのでした。



大変だった話をもう一つ。IIISで広報として働き始めて1年が過ぎた頃、当時の彼(今の夫)が仕事で福島県福島市に行くことになりました。一緒についてきてほしいと言われた私は、悩みに悩んだ末、彼について行くことにしました。


ついて行くと決めたはいいものの...科学コミュニケーション関係の仕事がなかなか見つかりません。また、ちょうどその頃、広報の仕事をしていても、「やっぱりもう少しアニメーションをやりたいなあ」と思うことが多くなりました。イラストやデザイン関連の業務はありましたが、アニメーションを作るようなまとまった時間は取れなかったのです。


そんなこんなで、最終的には福島にいくタイミングでフリーランスとして独立してどこまでやれるかチャレンジしてみることにしました。引っ越してからは、息つく間もなく税務署に行ったり、ウェブサイトを作ったり、何もかも初めてで手探りだったので、はじめは精神的にも経済的にも大きなプレッシャーを感じていました。



乗り越えられたのは、繋がりがあったから


福島市に来てすぐのころ困ったことがもう一つ。それは、知り合いがほとんどいないことと、人と知り合う機会が見つけられないことでした。


また、ほとんど人と話さない引きこもり生活に足を踏み入れかけていた時、ありがたいことにUJAとケイロン・イニシアチブの活動に誘ってもらったり、地元デザイナーさんのお手伝いをさせてもらうことになったりして、少しずつ繋がりが増えていきました。


福島で繋がりができてわかったことは、人が本当に温かいということです。特産の桃やりんご、季節の野菜などをお裾分けしてもらうことがたくさんありました。



独立から1年半。夫の仕事の都合で今度は福島を離れて母校のあるつくば市のそばに戻ることになりました。こちらに引っ越してからしばらく経ちましたが、今でも福島でつながった人との交流やUJA、ケイロン ・イニシアチブでの活動は続いています。それから時々古い友人や知り合いの方からお仕事をもらったりするようになってきました。


学生時代に全く知識がないところからアニメーションを作れるまでになれたのは、研究室の先生だけでなく、サイエンスコミュニケーションの先生や動画を指導してくれた芸術系の先生とも繋がっていたからです。また、今こうして自分の身の上話をさせてもらっているのも、元をたどればIIISの広報時代に現UJA会長の足立剛也さんと繋がったご縁からです。


たとえすぐに実を結ばなかったとしても、繋がりを大切にしておくと思いもよらないところで助けてもらったり、想像もしていなかったおもしろい仕事に繋がったりするみたいです。もしこれから仕事が忙しくなったりしても、繋がりはずっと大切にしながら生きていきたいなと思っています。



ずっと考えていること ーどう生きるのかー


唐突かもしれませんが、大事なのは自分がどう生きたいか、どんな人になりたいのかを、自分で考えて決めることかなと思います。


私は、周りの顔色を伺ってしまうことがよくあるのですが、自分の人生のことは親に言われたからとか、周りでやっている人がないからと言い訳せずに道を選べたことを誇りに思っています。


休学中に心を病んでいなかったらとか、完全にフリーランスになる前にもっと準備していればとか、失敗(?)や反省は山ほどありますが、自分で決めたことだからこそなんとか乗り越えてこられたし、その経験は自分の成長には不可欠でした。


たった一度の、あっという間の人生だから、これからも自分に嘘をつかずに自分の道を選びます。そしてたくさんの人と出会って、その繋がりを大切にしながら自分を豊かにしていきたいです。



今回の記事ではサイエンスイラスト・アニメーションの制作過程などにはあまり触れませんでしたが、もし興味がある方は、ウェブサイトから気軽にご連絡ください。一緒にお話しできたら嬉しいです。 


著者略歴


小林 沙羅。福島県猪苗代町生まれ。2017年筑波大学生命環境学群生物学類卒業。2017年筑波大学 国際統合睡眠医科学研究機構(WPI-IIIS)広報担当。2019年フリーランスとして独立。茨城県在住。

ウェブサイト:https://sarakoba.com/(巻末に作品を掲載しています)


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