武田薬品工業株式会社
小木曽 由梨
こんにちは。武田薬品の小木曽由梨(オギソユリ)と申します。国内でPhDを取得後、英RELX Group傘下のリード エグジビション ジャパンの企画営業職に就き、2013年に退職して渡米。シリコンバレーで半年間のジョブハンティングの末、現地バイオテックCarnaBio USAよりフルタイムポジションを獲得。以後、シリコンバレーとボストンを拠点とする技術営業職として、製薬・バイオテック向けにKinase製品や関連サービスの販売に従事してきました。2018年にグリーンカードを取得しましたが、日本初の製薬会社主導のサイエンスパーク運営に携われるチャンスがあり、帰国し現在に至ります。
渡米の経緯や米国での経験、企業スポンサー無しでのグリーンカード取得、米国でのビジネス経験が、私のキャリアへどのように活きているか、みなさんの参考になりましたら幸いです。
いざ渡米へ
大学院ではショウジョウバエを使った発生生物学の研究をしました。研究生活はとても楽しかった一方、アカデミアの研究成果と社会を繋げることに興味と関心が移っていきました。「博士課程の学生は卒業後もアカデミアに残るのが当たり前」という雰囲気がまだまだあった中でのキャリアチェンジには勇気が必要でしたが、「外の世界を見てみたい、産学連携を促進させたい」という思いが強くなり、就職活動をスタートしました。
大学でのキャリアフォーラムやエージェントを活用しながら就活しましたが、博士課程まで行くと年齢制限により応募すらできない会社があるなど、キャリアの可能性がとても限定的であることを痛感しました。そうした中、展示会主催会社(リード エグジビション ジャパン)よりオファーを頂きました。東京ビックサイトなどで年間100を超える大規模イベントをオーガナイズしている会社です。
私の希望が叶い、製薬・バイオ系の展示会、特にその中でも、産学連携の促進を目的としたパートナリングイベントの担当になりました。リードで2年半、企画営業職として全国の大学の技術移転機関(TLO)や、産学連携部と関わる機会に恵まれ、多くの研究者ともお仕事をさせてもらい、私の視野は大きく広がりました。ネットワークを構築する上でも、産学連携の実情を知る上でも、とても貴重な経験になったと思います。
その当時、周りの人々から「なぜ博士まで行ったのにイベント会社へ?」「なぜ博士なのに営業職なの?」というどちらかと言うとネガティブな(?)質問をたくさん受けましたが、渡米後は「面白い経験をしてるね!貴重な人材だ」というポジティブな声を聞き、日米の感覚の違いに驚いたことを覚えています。米国では、Ph.D.を持つ営業職の方は珍しくなく、私が在籍していたバイオテックでは、私を含む営業職4名のうち3名はPh.D.所持者でした。米国でのバイオ系Ph.D.取得後のキャリアは、製薬会社やバイオテックの研究職はもちろんですが、営業などのビジネス職も少なくなく、仲間と起業する人もいれば、投資会社やコンサル会社、MBAを取得するなど、多様性に富みます。背景の一つとして、日本と比較してアメリカは、バイオテックの数が多く、給料が高いことが、キャリアの可能性を広げていると思います。
話を本題に戻しますと、リードで働く中で、「日本の産学連携とオープンイノベーションを活性化するためには、グローバルな取組みが必須」と感じ、私自身グローバル人材となり、日本のイノベーションを促進したいと思うようになりました。
そこで、オープンイノベーションが活発に行われているシリコンバレーとボストンを中心に転職のチャンスを探しました。その手段として、①リードからの海外異動(前例は無し)、②現地への転職、③MBA留学、などの選択肢がありましたが、最短での渡米かつ低コストの②を中心に調べ始めました。
ところが、海外未経験な上、英会話もままならず、滞在ビザのあてもない私が、いきなり現地に就職してビザのサポートを受け、生活できるだけの給料を稼ぐことがいかに無謀な挑戦であるか、すぐに気づかされることになります。
その後、考えを改めて待遇や条件を妥協し、まずは無給でもよいので、チャンスを与えてくれる会社に絞って探し始めました。米国に滞在経験のある友人らを中心にコンタクトし、彼らの人脈による紹介の紹介の紹介、、、を繰り返した結果、幸運にも個人経営のコンサル会社InfiniteBio社からトレーニングのチャンスをもらうことになったのです。シリコンバレーに拠点を置くこの会社は、製薬・バイオ分野に特化した日米の懸け橋をビジネスとしているため、学べることが多そうな理想的な環境でした。
ただし、米国での就労ビザのサポートが難しかったため、現地の語学学校にフルタイムで通うことにし、資金的には厳しい状況でしたが、夢を優先して、学生ビザでの渡米を決意しました。
アメリカ就活
渡米後の生活は、昼間にサンノゼ州立大学附属の語学学校で英語を勉強し、空いた時間に会社でトレーニングを受ける多忙な日々がしばらく続きました。
学費に加え、シリコンバレーでの生活費は尋常でないほど高く、当時、大学の寮でアメリカ人女子大学生5名とルームシェアをしましたが(キッチン、リビング、寝室などすべて共有)、家賃は一人当たり月約$1,000でした(英語を学ぶ環境としては、とてもよかったです)。貯金を切り崩しながらの苦しい生活だったため、半年以内にジョブを見つけることができなければ諦めて日本へ帰国すると心に決め、就職活動を再開しました。
アメリカは、人と人とのつながり、その中での評価や信頼性を重視する文化なので、まずはネットワークを広げるべく、様々なネットワーキングイベントに参加して知り合いを増やし、知り合った人が主催するイベントに参加してさらに人脈を広げ、仕事のチャンスを探す活動を続けました。
そんな生活を半年ほど続けたころ、InfiniteBio社の社長から努力と根性を評価され、その当時彼女が米国支社長として兼任していたカルナバイオサイエンス(カルナ)という日本のKinase創薬ベンチャーの米国法人CarnaBio USA(Carna)に、フルタイムポジションとして正式に採用してもらえることになったのです。

就労ビザをサポートしてもらい、給料ももらえることになり、前途多難な渡米から半年、精神的にも経済的にも不安定すぎた生活を乗り越え、ようやくスタート地点に立つことができた喜びは、忘れることはできません。
与えられた職種は技術営業職でした。今思えば、あんなにも英語でのコミュニケーションに難のある中で、営業職として採用してくれたカルナの上層部の方々には感謝の気持ちしかありません。米国支社長からは「アメリカでビジネス経験がある日本人は沢山いるけれど、営業経験のある人は少ないので、きっと貴重な財産になると思う」と言ってくれたことを覚えています。
また私自身、営業職ほど英会話能力の向上によい機会はないと感じたとともに、顧客となる製薬会社やバイオテックとの繋がりを構築する上でも、シリコンバレーのオープンイノベーション環境を学ぶ上でも、大変貴重な機会をもらえたと感じました。【写真1】
実際、Carnaのオフィスは、バイオテックが集積するサウスサンフランシスコにあるJohnson & JohnsonのインキュベーターであるJLABS内にあり、まさにオープンイノベーションなるものが目の前で起こっていました。

JLABSでは、日々様々なネットワーキングイベント、セミナー、投資家とのone on oneミーティングなどが開催されており、数々のコラボレーション成立や、資金調達に成功して、JLABSから卒業していくスタートアップを目の当たりにし、大変ワクワクする日々を過ごしました。この貴重な経験は、現在のサイエンスパークの運営にとても活かされています。
その後、シリコンバレーで約2年半、ボストンにある米国本社で1年間、Kinase関連製品・サービス販売の技術営業職として研鑽を積みました。【写真2】
グリーンカード取得
Carnaでは、「E2」という就労ビザをサポートしてもらったのですが、退社とともに失効するため、転職できないという制限がありました。「グローバル視点でオープンイノベーションを促進できる人材になりたい」という目標を達成するためには、経験の幅を広げるための転職が欠かせないと感じていました。仕事が順調に進むようになったころより、次のステップに向けたグリーンカード取得への思いが強くなりました。
グリーンカードをサポートしてくれる企業は少なくないのですが、私のケースでは、理解を得ることは難しいと思い、個人での取得を目指すことにしました。労働認定証申請の適応があるPh.D.を有していたことから優先カテゴリーでの申請を考えていたのですが、複数の日本人移民弁護士より、研究職ではないためこの枠での申請は難しいと言われ、さらにビジネス歴も浅かったため、他の枠での申請も無謀とのこと、厳しい現実に直面することになりました。
可能性のある方法は2つ、アメリカ人との結婚、、、(当時独身だった私は、その可能性もPlan Bとして常に念頭に置いてはいましたが)、または、グリーンカードの抽選プログラムでした。前者は運命に任せ(?)、後者は毎年応募しました(可能性は決してゼロではなく、見事当選してグリーンカードを取得した友人もいます)。
が、そんなに物事は思い通りにいかず路頭に迷っていた中、ネットワーキングイベントで知り合った日本人から、運よく耳寄りな情報を入手することができました。彼女は、敏腕中国人弁護士のおかげでグリーンカードをちょうど取得できたところでした。これまで複数の弁護士から可能性がないと言われていたので、ダメ元で相談してみたところ、なんと「あなたのケースは90%以上の確率でうまく行くだろう」と言われたのです。半信半疑ながら、藁にも縋る思いで、その中国人弁護士へ依頼することにしました。しかもこれまで否定されてきたPh.D.を活かしたグリーンカード申請の方針で進めることになったのです。
その戦略が見事に当たり、2年ほどでグリーンカードを取得することができました(大統領交代の時期と重なり、通常よりも少し長引きました)。この経験から、弁護士によってこんなにも結果が違うものかと身をもって感じたとともに、桁違いの申請をこなしてきたであろう中国人弁護士の強さには、ただただ敬服せざるを得ませんでした。
ちなみに、このように苦労してグリーンカードを取得したわけですが、取得後、Plan Bのアメリカ人との結婚、も成就しました(グリーンカードを取得できたから結婚も成就した、という見方もありますが)。
取得後の転職
グリーンカード取得後、早速次のチャンスを探るべく、ボストンとシリコンバレーを中心に転職活動を開始しました。グリーンカードを持っているからと言って、ネイティブには到底及ばない英語力のハンデを背負っての転職活動は容易ではないという現実を理解し、①日本市場に興味のある米国企業と②日本企業の米国支社を中心に可能性を探しました。
アメリカでの転職活動によく活用されている『LinkedIn』を利用し、人材派遣会社などから色々な案件を紹介してもらい、その中の1社からオファーを獲得することができました。ボストンにあるバイオ教育関連の米国スタートアップで、タイミングよく、まさにこれから日本市場へ本格進出するところであったため、日本支社設立と日本支社長を視野に入れた、とても魅力的なジョブオファーでした。
一方、時を同じくし、ボストンに研究所のある「武田薬品工業」の方より「日本でサイエンスパークをオープンするにあたり、設立メンバーを探しているので、応募してみないか」というお話しをもらいました。その後、チームメンバーとの面談の機会を頂き、世界に開かれたサイエンスパークを本気で目指すという熱い想いと、ポテンシャルの高さに非常に感銘を受け、またとても魅力的なチームだったので、一緒に働きたいという気持ちが強くなりました。
ようやく取得したグリーンカードを一度も活かすことなく、帰国して就職することに戸惑いを感じ、大きな迷いがありました。しかし、日本から世界へのGateway、世界から日本へのGatewayとなりうるサイエンスパークの確立は、まさに私がやりたかったことであり、この貴重な機会を逃したくないという思いが勝り、日本へ帰国することにしました。
グリーンカードを取得したことで、私の気持ちが、「アメリカに居続けたい」から「やりたいことができる場所に行こう」に変わったのだと思います。実際、帰国から3年が経過した今でも、毎日とてもエキサイティングで、全く後悔はありません。ただし、米国外在住でグリーンカードを維持するには制限があり、手続きを経た上で生涯累計5年までとなっています。それ以上米国外に滞在する場合には、グリーンカードを放棄しなければいけません。私のグリーンカードのカウントダウンは、始まっています。
最後に

今までの転職活動を通して、米国でのビジネス経験は、日本に戻るとしても、とても有利に働くことを身をもって感じました。おそらく米国でのビジネス経験が無ければ、現在のポジションは得られていなかったと思いますし(仮に得られていたとしても、仕事の幅に雲泥の差があったと思います)、新卒時には可能性が無かったであろう複数の日本企業からも内定をもらいました。グローバル化を推し進める日本企業にとって、米国でのビジネス経験者は、喉から手が出るほど欲しい人材なのかもしれません。前途多難であった米国での挑戦は、想定を上回る発展を遂げ、私のキャリアの可能性を大きく広げてくれました。
アメリカでの就職は、ビザの問題、言語の壁など難しさは沢山ありますが、諦めずに、前向きに可能性を探せば、必ず道は開けると思っています。挑戦し努力する価値はきっとあるはずです。私もまだまだ道半ばですが、私の経験が、皆様のキャリアの参考になりましたら幸いです。【写真3】
著者略歴
2005年東京工業大学生命理工学部卒業。2011年東京大学大学院理学系研究科生物化学専攻にて博士課程修了。展示会主催会社リード エグジビション ジャパンにて産学連携イベントの企画営業職として従事した後、2013年に退職し渡米。シリコンバレーでの半年間の就職活動の末、2014年Kinase創薬ベンチャーCarnaBio USAより技術営業のポジションを得る。その後シリコンバレーとボストンを中心に、約3年半、製薬・バイオテック向けにKinase関連製品・サービスを販売。2018年にグリーンカード取得。現在は武田薬品工業にて、サイエンスパーク『湘南ヘルスイノベーションパーク』の事業開発部隊として、世界に開かれたサイエンスパークを創り上げるべく、日々邁進中。日本在住。2022年MIT Sloan MBAに私費留学予定。