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社会実装ノススメ

埼玉県立大学

山田 恵子


はじめに


私は昨年度研究班として「医学系研究をわかりやすく発信する手引き」を発表しました。これは医学系研究者が研究発表等の情報を科学的な根拠に基づき正しく発信する際に「どんなことが問題になるのか」を明らかにし、「気を付けたほうがよいことをわかりやすくまとめた手引き」になります。


COVID-19では、インフォデミック(ソーシャルメディアなどを通じて、不確かな情報が大量に拡散される現象)が問題となり、どのように医学系研究をオンタイムで、正確かつわかりやすく一般の方に伝えるかが議論となりました。


現在、医学系研究の発表はスピード感をもって行うことが求められます。さらに皆が健康な生活を送り、日本の医学系研究を促進するためには、研究者と一般の方の間の研究に関する理解のギャップを減らすことが重要です。


しかし、医学系研究には、ことばの難解さや、研究を理解するために必要な知識が一般的でないことなど、様々な問題があります。


私は公衆衛生研究者・整形外科医師として、「フレイル・ロコモティブシンドローム(ロコモ)」を中心とした整形外科領域の疫学や公衆衛生に関する研究や啓蒙に加え、日常生活の運動や体の動きを病院での診療につなげるPersonal Health Recordsを用いた研究なども行っています。


一方、医療・講習衛生の分野では欠かせないヘルスコミュニケーションも専門としており、研究と実務に長く関わってきました。なぜ私がこのような研究を行うようになったか、その経緯について少しお話したいと思います。



なぜヘルスコミュニケーションに?


私が医師になった平成11年(1999年)、日本の医療安全を語る上で避けて通れない2つの大きな事件が起こりました。「都立広尾病院消毒薬点滴事件」「横浜市立大学患者取り違え事件」です。


そして、1999年を境に医療事故および医療ミスの報道件数とそれによる医療関係訴訟はしばらく増加しました。


(下図:裁判所HP 裁判の迅速化に係る検証に関する報告書(第5回迅速化検証結果の公表に当たって)より引用

裁判の迅速化に係る検証に関する報告書~目次、このURLの、4. 紛争類型別の検討(PDF:2.023kb)、PDFのp91 図3:医療事故及び医療ミスの報道件数の推移、より引用)



裁判の迅速化に係る検証に関する報告書~目次、このURLの、4. 紛争類型別の検討(PDF:2.023kb)、PDFのp90 図1:新受件数の推移(医事関係訴訟)、より引用)


研修医として、少しでも病気の人の役に立ちたい、という希望を持って勤務を開始した自分にとって、患者さんの医療不信はすこぶるこたえるものでした。しかし、過熱する報道に左右される患者さんの気持ちも理解はできました。


一方、今でも良いとは言い難いですが、当時は今よりもさらに医師の労働環境は劣悪で、その中でも身を削って「患者さんのために」と働く先輩医師を見ていると、医師が悪いとは全く思えませんでした。


いずれも悪くないのに不信感が募るというこの不幸な状態はどこから来ているのか。私はその原因の一端が医療情報格差にあると考えました。つまり、自分の身体に起こっていることや、医師の説明などが専門的で理解できないことによって、不安が増長され、医療不信が起こっているのではないか、そんな仮説にたどり着いたのです。


では、情報格差が問題ならば、その解消のために自分は何をすればよいのでしょうか?私は、インターネット上のウェブサイトで一般の方向けの医療や医学に関する記事を書くことで、少しでも情報格差を埋める試みを始めました(All About 女性の健康)。


この活動は現在も続けており、それなりの効果があると思っています。しかし、読む人が限られることと、個人での活動では格差の是正に限界を感じるようになりました。つまり、医療従事者と医療消費者間・医療従事者間・医療消費者間の3つのヘルスコミュニケーションをすべて改善しないことには、問題の根本的な解決に至らないことに気付いたのです。


昨年度で20年目を迎えたオールアバウトの活動




(写真 連載中の All About 女性の健康


 


留学1回目:閉塞感を打ち破る!

ネット上の記事発信だけでは問題は解決しない、と漠然と思い始めた私は、医療不信の原因は医療情報格差だけではなく、おそらく日本の医療を取り巻く環境自体にあると考えました。そこで、日本で初めて医療・公衆衛生に特化した東京医科歯科大学の医療政策学大学院の修士課程の門をたたきました。


一時的に臨床から離れて日本の医療政策などを学ぶと共に、「なぜ医療情報に関する誤解が起こるのか、より適切な医療情報の提供について」という内容の修士論文を仕上げ、その論文での調査結果を基に「9割がよくある病気」(講談社)という一般向けの本を出版しました。


医療消費者の目線を重視した試みとして、インターネットに加え、書籍でも情報発信したことになります。しかしあまり手ごたえを感じられず、なんとなくブラックホールに向かって声を上げ続けているような喪失感がありました。


ダナファーバーヘルスコミュニケーション教室(当時)の研究室の仲間

ちょうどその頃、父が肺がんで亡くなったこともあり、自身の閉塞感を打ち破るために一念発起し、2009年にボストンにあるダナ・ファーバーのヘルスコミュニケーション教室へ研究員として短期留学しました。


ここで特に印象的だったことは、「米国ではまず、正確な情報を伝えたくても、コミュニティによっては識字率が低く、伝えるためにはまず、その地域の識字率の向上から始める必要がある」という原点回帰に加え、「例えきっちりとした医療情報を伝えることができたとしても、その先には健康保険の壁、というものがあって、受けたい医療や健診が必ずしも受けられるとは限らない」「一方、日本は国民皆保険のおかげで、本人が希望すれば医療や処置を受けることができる」という日本とアメリカの決定的な差でした。


研究室のフィールドワークと、実際にアメリカで医療を受診したことで、日本の国民皆保険と教育水準の高さは貴重な無形財産であり、日本の医療は恵まれていると、しみじみ実感したのです。


以上の経験より、私が今まで解決しようとしていた日本における医療従事者と医療消費者間のコミュニケーションの問題は、問題解決のためのプライオリティではないと感じ、一旦この活動から距離を置くことにしました。



留学2回目:キャリア中盤での大きな転換期に!

留学中に行った研究の発表でカナダへ

その後しばらく、ロコモや整形外科の疫学研究を行っていましたが、費用対効果を含めた地域での介入効果に興味を持つようになり、そのためには統計、疫学、健康における意思決定(Decision making science)を系統的に学んだ方が効率よく研究を立案、施行できるのではないかと思い、2017年からHarvard Chan School of Public HealthのMaster of Public Health (MPH): Clinical effectivenessに1年間留学しました。


後で聞いたところによると、日本の整形外科医師でハーバードのMPHに留学したのは初めてだったそうです。


この際、単身で2人の子連れ(留学開始時に3歳、6歳)での渡米でした。これもなかなか大変で、私自身も不安がないわけではなかったのですが、同級生や先輩、そして特に日本人の方々のサポートのおかげで、何とか学位をとることができ、かけがえのない留学生活となりました。


この留学でもいろいろ学ぶことも多かったですが、何より社会人キャリアの中盤に差し掛かったところで、学生という利害関係のない状態に戻り、新たな人脈を築くことができたのが非常に大きかったと思います。



ヘルスコミュニケーションの実務から研究へ

手引き発表シンポジウム

帰国後、しばらく整形外科の疫学に関する研究を続けていましたが、COVID-19のパンデミックに伴い、冒頭のインフォデミックが起こります。


テレビでは専門家と言われる人たちが自身の見解に基づいて様々なことを言い合い、本当に伝えるべき情報が見えにくくなりました。そこで、新たな研究テーマとして医療者側のヘルスリテラシーに取り組むこととしました。


余談ですが、「ヘルスコミュニケーション」という言葉は非常に広い範囲を含みます。


通常、ヘルスコミュニケーションといえば伝える側の視点と受け取る側の視点双方を含んだ広義の「ヘルスリテラシー」になります、一方、狭義ではヘルスコミュニケーションは伝える側の視点を重視した医療者のヘルスリテラシーになります(Kiuchi et al., Health Literacy, 2022)。


一般的に受け手側のヘルスリテラシーを上げるためには、それぞれターゲットを絞って、どの対象の人たちに何を伝えたいのかを細かく分けてマーケティングをする必要があります。


しかし、それでも効果的に伝えることはかなり難しく、私の周囲では「沼」と言っている人もいるくらいです。以前、私が行っていた実務は受け手側寄りのヘルスリテラシーでしたが、今回の研究は伝える側の視点を重視した初の試みでした。



医学系研究をわかりやすく発信する手引き

このプロジェクトは医学系研究に対し、研究自体がわかりづらい理由を用語と用語以外の問題に分けて考え、それを解決することで一般の方にわかりやすい説明に変換しようというものです。


用語に対しては、新聞記事や医療系のサイトから医学系研究を取り扱った記事のコーパス(テキストを大規模に集めてデータベース化した言語資料)を作成し、分析することで医学系研究の情報発信で高頻度に使われる代表的な33語群を抽出しました。


その上で、一般の方と医学研究者、医療関係者の間の認識の差を明らかにする調査を実施しました。さらに、「用語の解説」として、国語学者、メディア関係者、医学研究者など多様なバックグラウンドを持つ研究班構成員が、多様な立場から議論を行い、議論や調査の結果を踏まえて、具体的な解説例を示しました。


一方、用語以外の問題に対しては、「文字の大きさはこれ以上に」「文の長さはできるだけ短く」「受動態ではなく能動態を使う」といった、一般的な文章に用いられる基本的な事項(基本編)に加え、研究の段階や不確かさへの言及など、医学系研究特有の記載すべき事項(実践編)を「チェックリスト」として提示しました。


後者の作成には文献的レビューを行ったのですが、エビデンスと言える文献は限定的で特に日本語の論文はほぼ存在しないことを発見した際には思わず閉口しました。最終的に皆が使えるものにするためにはある程度の割り切りが必要と考え直し、最後は合議制で完成にたどり着きました。


写真 医学系研究をわかりやすく伝えるための手引き。これからさらに普及と改善を重ねます。



研究と社会実装


現在の研究とそれに至る経緯についてつらつらと紹介して参りましたが、実はもともと研究を志して研究を始めた人間ではありません。社会での実務、活動から、最終的に研究にたどり着いた人間ですので、研究は常に社会での立ち位置を考えるべきであると思っています。例え自分が基礎研究を行っていたとしても、常に社会に対して俯瞰的で、どのような社会課題を解決してゆくのか、そこが研究の本質ではないかと思う次第です。そして、その発想を基にすると、研究者は自身の研究を社会にわかりやすく説明する必要があります。


私はヘルスコミュニケーションの研究を介して、今後ともそのお手伝いができればと思っています。最後になりましたが、執筆の機会を与えていただいた同じ医局出身の森岡和仁先生(University of California, San Francisco )に深く感謝申し上げます。



著者略歴(プロフィール)

1999年東京大学医学部医学科卒。東京大学整形外科、都内病院整形外科・救急科、東京医科歯科大学医療政策学大学院、東大医療情報経済学研究員、2005年ダナ・ファーバーヘルスコミュケーション教室研究員、ハーバード大学公衆衛生学大学院等を経て、東京大学医学部附属病院 企画情報運営部 助教、現在埼玉県立大学 保健医療福祉学部 准教授。


【学位・資格等】 整形外科専門医、博士(医学)、修士(公衆衛生学、医療政策学)


【委員等】ロコモチャレンジ!推進協議会委員(2010~)、日本整形外科学会広報渉外委員(2019~)、経済産業省 保健医療福祉リアルワールドデータ活用促進のための国際標準化 「ヘルス&ケアデータプロセスモデル」国際規格開発委員会委員(2021~)、ISO/TC215/WG11(Health informatics, personalized digital health) member(2021~)






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