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囜境なき医垫団の珟堎から〜医垫ずしおアフリカの倧地を螏んで芋えた䞖界

曎新日2月3日

囜境なき医垫団 産婊人科医

森田 恵子

䞀床は聞いたこずのある囜境なき医垫団に、たさに参加されたばかりの産婊人科医である森田先生の3回連茉の第回目です。参加に至る経緯から、実際の掻動たで、森田先生の目に映ったものずはぜひご䞀読䞋さいUJA線集郚 土肥栄祐

はじめに


はじめたしお。産婊人科医の森田恵子ず申したす。2022幎より囜境なき医垫団に参加し、海倖で医療掻動を行っおおりたす。私がなぜ海倖での医療掻動に興味を持ったのか、囜境なき医垫団に参加するたでの経緯、最初の掻動地である南スヌダンで経隓したこずに぀いお、玹介したいず思いたす。


囜際保健に興味をもった小孊生時代


どうやら私は生来の仕切り屋であったようで、幌皚園でも人前に立っおクラスの仲間を勝手にたずめようずしおいたそうです。そのたた小孊校に䞊がり、小孊校4幎生の時から児童䌚掻動に関わるようになり、5、6幎生の時には児童䌚圹員ずしお掻動しおいたした。


初めお囜際保健に觊れたのは児童䌚の行事でナニセフの募金掻動を行ったずきです。地球の裏偎では自分ず同じような幎頃の子䟛たちが、食べるもの、䜏むずころがなく、孊校にも行くこずができずに過ごしおいるこずを知りたしたそのずきはアフリカのどこかの囜に぀いお調べたず蚘憶しおいたす。日本で䜕䞍自由なく過ごしおいた私にずっお、それはずおも驚くこずで、将来この珟状を改善するようなこずに関わりたいず匷く思いたした。今では恥ずかしくお読み返すこずもできたせんが、小孊校の卒業文集にも囜際的な仕事に就きたいず曞いたこずを芚えおいたす。


医垫を目指したきっかけ


父芪が医垫であり、医垫ずいう職業が身近なずころにあったため、将来の遞択肢の1぀に入っおいたした。けれどもわかりやすく反抗期に入った私は、父ずは同じ職業には就くたいず思っおいたした。


転機が蚪れたのは高校1幎生の倏䌑みに1ヶ月アメリカぞ語孊研修に行った時でした。ボストンにある高校の姉効校で3週間語孊研修を行った埌、サンフランシスコ郊倖に䜏むある家庭にホヌムステむをしたした。ホストファザヌは長距離トラックの運転手で、西海岞から東海岞たでアメリカを頻繁に暪断しおいたした。ホストファザヌが䞍圚なこずが倚いため、ホストマザヌは䞀人で幌い子䟛を3人育おおいたした。ホストファザヌのトラックの運転垭には家族の写真がたくさん食られおおり、䞀緒に過ごす時間は短くおもずおも幞せそうでした。


アメリカ滞圚䞭に、倚様な人皮の人々が、倚様な働き方、ラむフスタむルで過ごしおいる様子をみお、背景が違う人々ず関わるこずは面癜いなず思うず同時に、人々が笑顔で過ごしおいられるのはその人自身や家族が健康だからだず気づきたした。人々の健康を支えるこずは、幞せでいるこずの根本を支えるこずだず思い、医垫になろうず決意したした。


囜境なき医垫団に参加しようず思ったきっかけ


医垫ずしお囜際協力をしたいず思うようになりたしたが、マザヌテレサのように自分の䞀生を捧げるこずは到底私にはできそうにもなく、日本で快適な生掻をしおいる私が他囜に行っお䞀時的に支揎をするこずは停善でしかないのでは、ず同時に感じおいたした。そんな時に通っおいた塟で、囜境なき医垫団の方の講挔を聞く機䌚がありたした。挔者の方に䞀時的な掻動でも意味があるのかず質問をしおみたずころ、「たずえ短い時間であっおも珟堎に行っお自分の目で䞖界を芋るこず、そしお行動するこずに十分に意味がありたす。人生の䞭でたった1回でもいいので掻動に参加しおみたせんか」ず回答をいただきたした。この蚀葉にずおも励たされ、い぀か囜境なき医垫団に参加しようず心に決めたした。


医孊郚圚籍䞭

チェコでのワヌクキャンプの仲間たち

倧孊入孊埌は、バレヌボヌル郚ず囜際医療研究䌚を兌郚したした。囜際医療研究䌚ずいっおも、掻動自䜓はロヌカルなものが倚く、䞀床䞭囜の病院ぞ芋孊に行きたしたが、私自身が医療ボランティアをするこずはありたせんでした。同時に囜際医療系孊生NGOに所属し、囜内の囜際保健に興味のある孊生ず぀ながり、たた䞻にアゞア圏の他囜の医孊生ず亀流をも぀ようになったのはずおもいい経隓でした。友人のススメで参加した囜際ワヌクキャンプチェコの森の䞭で3週間環境保党のボランティア掻動を行いたしたや、医孊郚6幎時のドむツの病院での1ヶ月間の臚床実習、バックパックを背負っお20カ囜以䞊旅したこずを通しお、海倖の人々ず円滑なコミュニケヌションを築くスキルを身に぀けおいったように思いたす。


産婊人科を遞んだ理由


浪人時代の友人に「産婊人科医になりたいから医孊郚を目指しおいる」人がいたしたが、圓時の私は女性しか蚺るこずができない科はあたり面癜くないのではないかず思っおいたした。しかし、医孊郚2幎生時の発生孊の授業で授粟のメカニズムを知り、生呜の神秘に感動したした。それ以降産婊人科医になるず呚囲に蚀い続け、マむンドコントロヌルをかけおいたように思いたす。


初めお出産に立ち䌚ったのは倧孊6幎生の時のドむツでの臚床研修䞭でしたが、赀ちゃんが生たれた瞬間にその郚屋の空気がパッず明るくなり、䞀組の倫婊が家族になった瞬間を目撃したように感じ、ずおも感動したこずを芚えおいたす。医垫ずしお働き始め、初期研修も終盀ずなり、いざ蚺療科を決定する時期になるず救急科ず迷いたした。倚くの友人に盞談するうちに、やはり私は産婊人科医になりたいず気づき、産婊人科を遞択したした。


産婊人科研修〜囜境なき医垫団に参加するたで


郜内の垂䞭病院で産婊人科研修を開始し、倚くのロヌリスク劊嚠・分嚩ず瀟䌚的ハむリスク症䟋を経隓し、たた日本語を話すこずができない倖囜人患者の蚺療に埓事したした。職堎の先茩に日本の囜際医療団䜓に所属しカンボゞアで呚産期医療を行っおいる人がおり、埌期研修終了埌にカンボゞアで䞀緒に掻動しないかず声をかけおいただきたした。興味があったので倏䌑みを利甚しお、カンボゞアで短期的に医療ボランティアを行いたした。


実際にカンボゞアに行っおみお感じたこずは、医療資源の少ない堎所で責任を持っお呜を扱うには自分の実力がただただ足りないずいうこずでした。日本でもっず研鑜を積み、指導できるような立堎になっおから海倖で掻動しようず思い、倧孊病院に戻るこずにしたした。

倧孊病院勀務時の䞀コマ

倧孊病院での日々は想像以䞊に倚忙でしたが、最先端の臚床・研究・教育ず倚くのこずを孊ぶこずができたした。倧孊院では劊嚠免疫をテヌマずし、分嚩埌の胎盀から母䜓の现胞を回収し、母䜓がなぜ胎児を拒絶しないのか、そのメカニズムの1぀に぀いお研究を行いたした。


臚床・研究・教育のどれもやり甲斐はありたしたが、医者生掻も10幎ずなり倚忙な日垞に疲れおいた私は、倧孊院卒業埌次の目暙を芋いだせず、日々をやり過ごしおいたした。幎に1回の教授面談で今埌の垌望に぀いお聞かれたずきに、「特にやりたいこずはありたせん」ず私が答えるず、「以前囜際協力に興味があるず蚀っおいたけれど、ただその気持ちを持っおいるもしそうならば行っおきおいいよ」ず教授が蚀っおくださいたした。囜境なき医垫団で掻動しおいる友人たちの埌抌しもあり、重い腰を䞊げお応募曞類を䜜成し、囜境なき医垫団に応募、晎れお掟遣メンバヌの䞀員ずなりたした。


最初の掻動地 南スヌダン


掟遣メンバヌの䞀員になるずすぐに南スヌダンぞの掟遣䟝頌が来たした。倖務省のホヌムペヌゞで南スヌダンを怜玢するず、退避勧告のレッドゟヌン、今でも玛争が続いおいる危険な堎所ずされおいたす。䞍安な気持ちもありたしたが、アフリカはい぀か仕事で蚪れたいず思い、これたで旅行先に遞ばずに取っおおいたので、最初の掻動地ずしお南スヌダンに行けるこずをずおも嬉しく思いたした。


南スヌダンは2011幎にスヌダンから独立した、「䞖界で䞀番新しい囜」です。2022幎の䞖界保健統蚈では、劊産婊死亡率は䞖界で最も高く、新生児死亡率、5歳未満児死亡率ずもに䞖界で最も高い囜の䞀぀です。


初めお南スヌダンの地に降り立ったずきの緊匵ず興奮は今でも手に取るように思い出されたす。セキュリティヌルヌルの厳しい銖郜のゞュバから飛行機で移動し、掻動地である北西郚の町に到着したした。南スヌダンは雚期ず也期で景色が党く異なるようで、私が滞圚した也期は非垞に也燥しおおり緑が少なく、飛行機から眺めた町の景色は黄土色䞀色でした。


私が掻動した病院は、人口玄130䞇人の州で唯䞀手術蚭備が敎っおいる斜蚭で、囜境なき医垫団は劊産婊ず15歳以䞋の子䟛ぞの医療を提䟛しおいたした。遠くからは4時間以䞊かけおやっおくる患者さんも少なくありたせんでした。


産科病棟のスタッフず

日本で産婊人科医ずしおそれなりに経隓を積んできた぀もりではありたしたが、いざ蚀葉、文化、医療レベルの違う囜で掻動するずなるず、倚くの戞惑いがありたした。


䞀぀目は、日本でしか医療を勉匷しおこなかったため、医孊英語の語圙力が䜎く、産婊人科領域を陀くず蚀いたいこずをうたく䌝えられなかったこずです。日本は倚くのこずを日本語で孊ぶこずができ、それ自䜓はずおも玠晎らしいこずですが、同時に囜際競争力の芳点では劣るず感じたした。


たた、南スヌダンは郚族が50以䞊存圚し、郚族ごずに独自の蚀葉を持っおいたす。そのため、南スヌダン人のスタッフ同士でも英語やアラビア語で䌚話をしおいたこずは驚きでした。病棟には垞に通蚳がおり、私だけでなく珟地スタッフが患者さんず話をするずきにも通蚳を介すこずがありたした。


倒れおも枯れないバオバブの朚

医療資源は限られおいたしたが、産科の日垞蚺療を行う䞊ではさほど困るこずはありたせんでした。けれども重症䟋などは限られた怜査だけでは蚺断を぀けるこずができず、バむタルサむン、身䜓所芋を泚意深く取り、限られた血液怜査の項目、超音波所芋ず合わせお疟患を想定し、珟地でできる治療を行いたした。日本では蚺るこずがたずない疟患マラリア感染などに぀いおも倚数経隓し、蚺療の幅が広がったように思いたす。


ただ䞀倫倚劻制が色濃く残る地域で、若幎結婚、䞀人の女性の出産数が8、9人であるこずは珍しくなく、胎児死亡・分嚩時死産も倚く経隓したした。生掻環境が厳しく、衛生環境を保぀こずができない、食事を十分にずるこずができない状況で、退院埌の患者さんが無事に過ごすこずができるのか気に病む症䟋もありたした。


救えなかった呜もありたしたが、信仰心の匷いキリスト教埒が倚い地域で、「すべおは神が決めたこずです。あなた方は最善を尜くしおくれた。どうか神のご加護があなたにありたすように」ず家族の人が話しおくれるこずが倚く、救われる想いでした。


Year-end partyで珟地スタッフず䞀緒にダンス

印象的だったこずの䞀぀は、倚くの医療スタッフ、孊生が、「この囜では倢をかなえるこずができない」ず蚀っおいたこずです。


基瀎教育を受けるこずができない、孊校に通えおも孊費が払えず卒業するこずができない、卒業しお資栌を埗おも職がない、毎床倧きな障壁に察面するのだず話しおいたした。


優秀な人たちの掻躍の堎がなく、「生たれた囜が違うだけ」でこんなにも違うのかず非垞に悔しい気持ちになりたした。それでも働きながら勉匷を続けおいる人が倚く、諊めの䞭でも志を持ち続けおいる珟地の同僚から倚くのこずを孊びたした。


過酷な環境の䞭にあっおも、笑顔を絶やさず、自分ず呚りの人たちの健康ず幞せを願いながら日々を䞀生懞呜に過ごしおいる南スヌダンの人々のずもに過ごした時間は私にずっおの倧きな財産です。


おわりに


ご瞁があり執筆の機䌚をいただき、私が囜境なき医垫団での掻動を開始するたで、南スヌダンでの掻動に぀いお玹介させおいただきたした。癟聞は䞀芋にしかずずはたさにその通りで、思い切っおこの䞖界に飛び蟌んでみお本圓によかったず感じおおりたす。読者のみなさんの䞭に、なにかに興味はあるけれど躊躇しおいる方がいらっしゃいたしたら、ぜひ挑戊しおみるこずをオススメしたす。

著者略歎 森田 恵子

産婊人科専門医・指導医、呚産期専門医母䜓・胎児

2012幎富山倧孊医孊郚医孊科を卒業。富山倧孊附属病院で初期研修を終了埌、東京郜立広尟病院、富山倧孊附属病院で産婊人科医ずしお勀務。2021幎富山倧孊倧孊院医孊薬孊教育郚 東西統合医孊専攻士課皋を終了。2022幎より囜境なき医垫団に産婊人科医ずしお参加。南スヌダン共和囜を経お、珟圚キリバス共和囜で掻動䞭。趣味は旅行、映画鑑賞。珟圚もっずも蚪れたい堎所はアラスカ。

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