間違いの意味論

更新日:4月18日

広島大学

保田 朋波流


自身の研究対象である免疫から少し離れて、私と生命科学研究との関わり、そして海外で研究をする意義について"間違いの意味"という視点から書いてみたいと思います。ちなみに本原稿のタイトルは、多田富雄先生の著書である「免疫の意味論」へのリスペクトからタイトルの一部を拝借させていただいております。


「世羅」という地名にピンときたら高校駅伝好きな人かも知れません。広島の県北に位置する世羅町は私が生まれ育った田舎ですが、世羅高校は駅伝の強豪校として知られ青山学院の原晋(はら すすむ)監督も世羅高校陸上部出身だったりします。近年は観光農園が増えたお陰で市街からたくさん人が来るようになり大型スーパーもできました。とはいえ私の実家は今だにコンビニも信号も街灯すらない山奥にあり、周囲はどこまでも山と田んぼです。人が一切踏み入らない広大な土地が広がっており、猪、鹿、猿、狐、狸、いたち、フクロウ、雉子、蛇、土竜に牛蛙などの野生動物が人に対して圧倒的数的優位となっている地域です。我が家の土地と自然の境界すらよくわからないようなところでして、生活水は井戸の湧水、薪を割って家の風呂を沸かすのが子供だった私の仕事でした。野生のフクロウが裏庭の井戸の上に立って、こっちをじっと見ている時があります。首が360度回るなんて聞きますが、確かに頭がグルグル回るんですね。2回転ぐらいしているように見えましたが、実際は体をねじっているから首だけだと360度も回らないらしいです。近所の河川にはナウマン象の化石が眠り、田んぼに水が張られる頃には蛍がたくさん飛び交い、夜には星が煌々と輝きます。こうした環境で育ったせいか子供の頃から人工物にはさほど興味がなく、天体や生物といった自然物の存在に価値を感じました。研究者の道を選ぶ動機は人それぞれだと思いますが私の場合、生命科学研究に進むきっかけになったのは多種多様な生物に囲まれた暮らしの中で「進化か、創造か」という一種独特な問いについて考えさせられた事情が影響していると思います。


母親は創造主の存在を頑なに信じる非常に熱心なクリスチャンでした。進化論を真っ向否定してます。昔の人は寿命が1,000年ぐらいあったなんてことを真面目に話し、ノアの方舟やバベルの塔は歴史的事実のごとく会話に登場する環境で育ちました。ですから世間一般の常識に相反する考え方の矛盾と幼い頃から向き合う必要がありました。子供の私は図鑑や科学書籍などで、「太古の地球に自然発生した生命が時間をかけて進化して現在の生態系が形作られてきた」と疑うこともなく、さも事実であるかのように解説されていることに違和感を感じてました。一方で、インテリジェントデザイン(ID)、いわゆる神の存在ですが、「創造主によって生命が形作られた」と言われてもやはり説得力も現実味も欠けると感じてました。鰯の頭も信心からといいますが、人が何を信じるかは自由だと思うのです。しかしそれを押し付けられると実に閉口します。信仰に限らず典型的なのが日本の学校教育です。先生は教科書に書いてあることを説明する。生徒は黙って先生の言うことを聞かなければならない。私の子供たちはアメリカやドイツの学校に通いましたが、そのようなことはなかったように思います。教科書に書いてあることが間違っているかも知れないということを教えてくれる日本の先生は記憶にありません。実際、世の中には間違いがたくさんあるし、免疫学の講義で使用される立派な教科書にだっていくつも間違いがあります。でも子供が先生や大人に向かって間違っているなんて言えない空気が日本にはあるし、質問をすることすら嫌な顔をされることも珍しい話ではありません。なぜか。とりわけ日本人の多くは間違うことを恐れるからではないでしょうか。


IDは現代社会では荒唐無稽、空想の世界とされます。しかし例えばネジ一本までバラバラになった時計を46億年、熱や圧力をありとあらゆる条件で加えて振り続けたとしても元の時計がたまたま偶然に復元される可能性は限りなくゼロであるように、合目的で形ある物体、高度に組織された物体はなんらかの"知"によって作り出されます。少なくとも生命は神がかった存在であり、その複雑な構造と仕組みに多くの人が興味を惹かれます。進化も創造もどちらにしたって常識ではあり得ない現象であり、そんな常識が通用しない世界に私達は生きているのだという現実を突きつけられているような気がします。「サイエンス」はそういった何が正しいのかよく分からない、霧が立ち込めたような世界において唯一頼りになる武器であり、辿り着いた事実を積み重ねる事によって見える景色が少しずつ広がります。人種も宗教も政治も立場も関係ない平等に開かれた世界であり、自分が生きる道はここしかないような気がしました。


Dr. Klaus Rajewsky近影(写っている方々に掲載の許可をいただいていないため、著者のご意向により写真は加工されています)


学生の頃にすっかり惚れ込んだ免疫学者がいます。Klaus Rajewskyというドイツ人研究者で、彼の論文には生命の仕組みや本質を、緻密にデザインされた実験によって美しく解き明かす異次元の存在感がありました。留学先としてKlaus Rajewsky研究室以外の選択肢は私にはありませんでした。2008年からアメリカとドイツの二つの研究所で通算10年近くKlausと一緒に研究できたことはこの上ない幸せでした。自分が理想とする研究者の元で研究の経験を積むことはかけがえのない財産になります。研究を進める上でもIDが不可欠であることもKlausから学びました。ここで言うIDとは研究論文を意図的に造り上げるという意味ではなく、クリティカルな疑問に答えるための最善の実験を緻密にデザインしてこそ初めて真に価値ある発見が得られるという意味です。Klaus研では議論不十分のまま実験を開始することは未来永劫許されません。これは日本人研究者が陥りがちな下手な鉄砲数打ち戦法やハードワーク至上主義を否定するものであり、日頃の意識づけと訓練が不可欠です。トップサイエンティストが何を考え、物事の価値基準をどこに置いているのかということは直に接しない限り知り得ないことであり、研究者を目指す若い人達にはどんどん日本から飛び出していって、そういった感覚を身をもって感じて欲しいと思います。


実際日本を出て海外で外国人とやりとりをするようになると、会うたびに言うことが変わって信用できないと言う感覚を覚えることがあります。○○人は嘘つきだ、とかいうのも時折耳にする話です。しかし彼らの多くは決して嘘をついているわけではなく、その瞬間に正しいと信じていることを堂々と主張しているに過ぎないのです。そしてもしそれが間違いだとわかれば何事もなかったように修正するのです。若い頃はそういった前後の整合性の矛盾だったり態度が許せなかったりもしましたが、年齢を重ねてみると逆にそれで良いと思うようになりました。論文を書いたりするときなんかもそうですが、最初から完璧を目指して間違えないように気を使って書いた文章より、何度も何度も間違いを修正して書いた文章の方が遥かに良かったりします。間違っていても全く気にしないというのは科学者としては失格ですが、誰に指摘されようが間違いは間違いとして素直に聞き入れる心のゆとりがあるなら間違えることは寧ろ良いことではないでしょうか。であるなら、間違いを恐れる必要は全くないわけで、間違いを指摘した方も指摘された方もかえって気分が良いかもしれません。この日本においても、上司と部下、先生と生徒、大人と子供、年上と年下、上下関係なしに間違いを指摘できること、間違いを認めることが当たり前にできる社会になって欲しいなあと心から願っています。海外に出て、サイエンスを通じてこういった感覚が理解できるようになったことは私にとってはとても意味があったように思います。


研究をやっていると時には絶望のどん底に沈んで這い上がれなくなりそうなこともあります。それでも「サイエンス」を真面目にやっていれば、不思議といつかきっとうまく行くし、本当に困ったときには仲間が助けてくれます。間違いを間違いだと誰もが言えるような社会とは、人同士の距離が近い社会であり、寛容な社会であるとも言えます。海外留学の意義とは、ビッグジャーナルに名前が載るとか、箔を付けること以上に、サイエンスは間違いの修正によって成り立っているから強いという事、そしてサイエンスを愛する人達が世の中には思った以上にたくさんいることに気付かされることにもあるのではないでしょうか。


最後に以上は私のような凡人の考えるところでありますが、Klausだけは例外であり、話す言葉や書く言葉に間違えが一切起こらないことは驚きでした。私の人生の中でKlausのような人に出会えたことはかけがえのない経験になりました。


著者略歴

保田 朋波流。1996年九州大学農学部卒業。1998年九州大学大学院農学研究科修士課程修了。2001年東京大学大学院医学系研究科博士課程退学。2003年同研究科博士(医学)取得。日本学術振興会特別研究員、東京医科歯科大学難治疾患研究所助教、理化学研究所免疫アレルギー科学総合研究センター研究員、ハーバード医学校研究員、日本学術振興会海外特別研究員、マックスデルブリュックセンター研究員、国立長寿医療研究センター流動研究員、九州大学生体防御医学研究所准教授を経て、2019年より広島大学大学院医系科学研究科免疫学教授。連絡先:yasudat@hiroshima-u.ac.jp