間違いの意味論

広島大学

保田 朋波流


免疫から少し離れて、自分と生命科学研究との関わり、海外で研究する意義について、"間違い"を承知で思うことを書いてみたいと思います。


「世羅」という言葉にピンときたら高校駅伝好きな方かも知れません。広島県世羅町は私が生まれ育った田舎ですが、駅伝が有名で青山学院の原監督も世羅高校出身だったりします。最近は観光農園が増えたお陰で市街からもたくさん人が来るようになり、大型スーパーも建ちました。とはいえ、私の生家は今だにコンビニも信号も街灯もない山奥にあって、周囲はひたすら山と田んぼ。人が一切踏み入らない広大な土地が広がっており、猪、鹿、猿、狐、狸、イタチ、フクロウ、キジ、蛇、モグラに牛蛙と野生動物はたくさんいるけど、人はほとんどおらず、我が家の土地の境界がどこかすらよくわかりません。生活水は井戸の湧水で、薪を割って家の風呂を沸かすのが自分の役目でした。野生のフクロウなんかが裏庭の井戸の上に立って、こっちをじっと見ている時があります。首が360度回るなんて言われている通り確かに顔がグルグル回るんですね。2回転ぐらいしているように見えましたが、実際は体をねじっているから首だけだと360度も回らないらしいです。近所の河川からはナウマン象の化石が出土し、田んぼに水が張られる頃には蛍がたくさん飛び交い、夜には星が煌々と輝きます。そういう野生環境で育ったせいか昔から人工物にはさほど興味がなく、天体や生物といった自然物に価値を感じました。研究者の道を選ぶ動機は人それぞれだと思いますが、自分の場合、生命科学研究に進むきっかけになったのは「進化か創造か」という少し特殊な事情からでした。


母親は創造主の存在を頑なに信じるとても熱心なクリスチャンです。進化論を真っ向否定し、昔の人は寿命が1000年ぐらいあったなんてことを真面目に話し、ノアの方舟やバベルの塔は歴史的事実のごとく会話に登場します。世間一般の常識に相反する矛盾と幼い頃から向き合う必要がありました。子供の自分としては図鑑に描いてあるように生命が自然発生して進化を遂げたとか、あるいは創造主(ID, インテリジェントデザイン)によって生命が形作られたとか言われても説得力も現実味も欠けるなあと言う感じでした。“鰯の頭も信心から”で、人が何を信じようが自由だと思うのですが、それを押し付けられると実に閉口します。信仰に限らず典型的なのが日本の学校教育です。先生は教科書に書いてあることを説明する。生徒は黙ってそれを聞かなければならない。アメリカやドイツの学校と比べると明らかに異質です。教科書に書いてあることが間違っているかも知れないということを教えてくれる先生はあまり記憶にありません。実際、世の中には間違いがたくさんあるし、免疫学の有名な教科書にだってたくさん間違いがあります。でも子供が先生や大人に向かって間違っているなんて言えない空気があるし、質問をすることすら嫌な顔をされることもあります。なぜか。とりわけ日本人の多くは間違うことを恐れるからではないでしょうか。


IDは現代社会では荒唐無稽、空想の世界とされます。しかし例えばネジ一本までバラバラになった時計を46億年、熱や圧力を様々な条件でかけて振り続けたとしても元の時計がたまたま復元される可能性は限りなくゼロなように、合目的で形あるもの、高度に組織された物は知によって成り立っています。少なくとも生命は神がかった存在であり、その複雑な構造と仕組みに多くの人が興味を惹かれます。進化も創造もどちらにしたって常識ではあり得ない現象で、そんな常識が通用しない世界に私達が生きているという現実を突きつけているような気がします。「サイエンス」は、そういった何が正しいのかよく分からない、霧が立ち込めたような世界で唯一頼りになる武器であり、たどり着いた事実を積み重ねることによって見える景色が少しずつ広がります。人種も宗教も政治も立場も関係ない平等に開かれた世界であり、自分が生きる道はここしかないような気がしました。


学生だった頃にすっかり惚れ込んだ免疫学者がいます。Klaus Rajewskyというドイツ人研究者で、彼の論文には生命の仕組みや本質を、緻密にデザインされた実験によって美しく解き明かす異次元の存在感がありました。留学先としてKlaus研以外の選択肢は自分の頭になく、2008年からアメリカとドイツの二つの研究所で通算10年近くKlausと一緒に研究をさせてもらいました。自分が理想とする研究者の元で研究の経験を積むことは、かけがえのない財産になります。研究をする上でIDが不可欠であることも、Klausから学びました。ここで言うIDとは、もちろん「研究論文を意図的に造り上げる」という意味ではなく、「クリティカルな疑問に答えるための最善の実験を緻密にデザインして初めて真に価値ある発見が得られる」という意味です。Klaus研では議論不十分のまま実験を開始することは未来永劫許されません。これは日本人研究者が陥りがちな下手な鉄砲数打ち作戦やハードワーク至上主義を否定するものであり、日頃の意識づけと訓練が不可欠です。トップサイエンティストが何を考え、物事の価値基準をどこに置いているのかということは直に接しない限り知り得ないことであり、研究者を目指す若い人達には躊躇せず日本から飛び出していって、そういった感覚を身をもって感じて欲しいと思います。


Dr. Klaus Rajewsky近影(写っている方々に掲載の許可をいただいていないため、著者のご意向により写真は加工されています)


海外に出て外国人と話していると、会うたびに言うことが変わって信用できないと言う感覚を覚えることがあります。○○人は嘘つきだから、といった声も時折耳にする話です。しかし彼らの多くは決して嘘をついているわけではなく、間違ったことを正しいと信じて堂々としているに過ぎず、本当に間違いだとわかれば何事もなかったように修正するのです。若い頃はそういうのが許せなかったりもしましたが、一周回ると逆にそれでよいと思うようになります。論文を書くときもそうですが、最初から完璧を目指して間違えないように気を使って書いた文章より、何度も何度も間違いを修正して書いた文章の方が遥かによかったりします。間違っていても全く気にしないというのは科学者としては失格ですが、誰に指摘されようが間違いは間違いとして素直に聞き入れる心のゆとりがあるなら、間違えることはむしろよいことではないでしょうか。であるなら、間違いを恐れる必要は全くないわけで、間違いを指摘した方も指摘された方もかえって気分がよいかもしれません。この国も上司-部下、先生-生徒、大人-子供、年上-年下など関係なく、間違いを指摘できること認めることが当たり前にできる社会になって欲しいと心から願います。海外に出て、サイエンスを通じてこういった感覚が理解できるようになったことも私には価値があったように思います。


長年研究をやっていると、時には絶望のどん底に沈んで這い上がれなくなりそうなこともあります。それでも「サイエンス」を真面目にやっていれば、不思議といつかきっとうまく行くし、本当に困ったときには仲間が助けてくれます。間違いを間違いだと誰もが言えるような社会とは、人同士の距離が近い社会であり、寛容な社会であるとも言えます。海外留学の意義とは、ビッグジャーナルに名前が載るとか、箔を付けること以上に、サイエンスは間違いの修正によって成り立っているからこそ強いのだということ、そしてサイエンスを愛する人達が世の中には思った以上にいることに気付かされることにもあるのではないでしょうか。最後に以上は私のような凡人が思うことであり、Klausは私の知る唯一の“間違えることが決してない神のような人”でありました。


2020年6月19日


著者略歴

保田 朋波流。1996年九州大学農学部卒業。1998年九州大学大学院農学研究科修士課程修了。2001年東京大学大学院医学系研究科博士課程退学。2003年同研究科博士(医学)取得。日本学術振興会特別研究員、東京医科歯科大学難治疾患研究所助教、理化学研究所免疫アレルギー科学総合研究センター研究員、ハーバード医学校研究員、日本学術振興会海外特別研究員、マックスデルブリュックセンター研究員、国立長寿医療研究センター流動研究員、九州大学生体防御医学研究所准教授を経て、2019年より現職。連絡先:yasudat@hiroshima-u.ac.jp

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