北海道大学
園下 将大
こんにちは。私は、北海道大学にて2018年秋に独立し、深刻な福祉課題となっているがんの発生機序の解明や新規治療法の開発に取り組んでいます。今回、UJA Gazetteよりお誘いを受け、留学前から現在までの私の来歴をご紹介することになりました。研究者人生は人それぞれですが、その一つの例として、留学前・留学中の方々がキャリアパスを考える上でご参考になるところがあれば幸いです。
壁を突破するために
風邪をひいても、時間が経てば元気になる。怪我をしても、かさぶたができて治ってしまう。幼い頃の私は、人体が備えるそんな不思議な力に大変魅了されていました。しかしやがて、その力も万能ではなく、世の中には様々な病気に苦しむ多くの人が存在する現実に気づきました。そういった人たちをなんとか助けることができないか。工作やプラモデル作製が大好きだった私は、似たような感覚で例えば素材や部品を組み合わせて薬づくりをすることで人々を救うことができないだろうかと考え、東京大学薬学部に進学しました。
研究対象として選択したのは、がん。日本人の死因の1位であることをはじめとして、世界各国で極めて深刻な福祉問題となっているためです。「発がん過程を解明すれば、がん治療に有用な治療標的を同定して創薬を効率よく推進できるかもしれない」と考えた私は、当時遺伝子改変マウスを駆使して最先端の研究を展開しておられた誠先生(東京大学薬学部遺伝薬理学教室・当時)の研究室の門を叩き、消化器がんの研究に取り組みました。その結果、学部、そして研究室が移動した後の京都大学医学研究科博士課程にかけて生理活性脂質プロスタグランジンE2が、そして同教室のポスドクの時にNotchシグナル伝達経路が、大腸がんの発生や進展に関与することを見出しました。また、同教室の助教から准教授時代にかけて、大腸がんの初の転移抑制遺伝子Aesや、大腸がん患者の予後診断に資する予後マーカーとしてリン酸化TRIOタンパクを同定することに成功しました。同時にこの間、アメリカに14年間もおられた武藤先生から「世界の視点で物事を見ることの大切さ」を教えていただき、私に留学への憧れが芽生えました。
これらの発見は、非常に大きな知的興奮を与えてくれました。しかし実際には、マウスやヒトがん細胞を使用したこれらの研究は膨大な時間と労力を必要とするため、なかなか創薬の効率を上げられないことにも気づきました。実際、がんの治療薬の開発は長年極めて難航しており、治験の成功率はたったの約7%と、主な疾患に対する創薬研究の中で最も困難な状態が続いています。そこで私は、自身の研究に別の実験系を、特に個体レベルの解析系を取り入れることで、研究を加速することができないかと模索を開始しました。「がんの発生には多くの場合遺伝子異常が関与するが、例えば、遺伝学が極めて発達しているだけでなく飼育も安価かつ容易なショウジョウバエを上手に使い、哺乳類と相補的に組み合わせるような研究はどうだろう。哺乳類実験を実施する前にハエを使用すれば、遺伝子の機能や薬効の評価をより網羅的に実施してさらに詳細に解析したい項目を絞り込み、迅速な研究遂行が可能になるかもしれない」と考えました。30代も後半に差し掛かり、独立したいと強く願うようになっていた私は、新しい解析基盤を模索すべく情報収集を開始しました。
転機は2012年に訪れました。ふと手に取ったニューヨークからの論文を読んだ私は、読了後に衝撃と感動でしばし呆然としてしまいました。その論文の著者たちが、まさにハエでヒトがんモデルを作ってがん治療薬のスクリーニングを実施していたからです。先を越されたという悔しい気持ち半分、一方で、上手にやればやはりハエで創薬研究は可能なのだと確認できた嬉しい気持ちが半分でした。よくよく検討してみると、その論文でなされていた薬物のスクリーニングは、運に頼る部分がまだ大きいものでした。改善の余地が残されていると感じた私は、すぐに責任著者のRoss Cagan教授に、「いまだ誰も確立していない革新的な新規創薬手法を創りたい」とレターを書きました。研究室加入の問い合わせが世界中から数え切れないほど来る中、幸いにもインタビューの機会をいただくことができました。
実はRossとのインタビューの日は、アメリカでは3月の第2日曜日でちょうどサマータイムが始まり、日本との時差が1時間縮まった日でした。それを知らなかった私は、インタビューの準備のためにたまたま1時間早く仕事場に来ていたのですが、そこにRossからのSkypeの着信が。「?」と出てみると普通にインタビューが始まり、心の準備も何もできず思い切り素の自分のままで最後まで終わってしまいました。が、「創薬の高い壁を壊してやろうぜ!」と二人で意気投合したのでした。後で、「もしのんびりしていたら留学の機会を逃していたかもしれない」と思うと冷や汗が出ましたが、もしかすると飾らず話せたのがかえって良かったのかもしれません。今となっては彼とも笑って話せるいい思い出ですが、留学を検討中のみなさん、大切な約束がある時はくれぐれも時差にご注意を!
さて、受け入れる側として当然ありがたいのは、こちらが自身の給料や研究費を持ち込むことです。ここで渡りに船。折しも、京都大学が若手教員を海外に派遣して自己研鑽を支援する事業、通称「ジョン万プログラム」を開始したところでした。長期出張の扱いで、給料に加えて生活費と研究費を別々に支給するというもので、意欲的な制度を設けてくれた京都大学には大変感謝しています。運良く採用されたことで、妻と3人の幼児を伴っていた私も、かなりの精神的な余裕を持って妻と3人の幼児と一緒にニューヨークに渡ることができました。時は2013年、学生の頃から抱いていた留学の夢がついに叶った37歳の夏でした。
留学生活
私が留学したのは、ニューヨークのマンハッタンにあるIcahn School of Medicine at Mount Sinai(マウントサイナイ医科大学)です。貧しいユダヤ人に無償で診療を提供するために160年ほど前に設立されたマウントサイナイ病院を前身としています。約50年前に医科大学が設置され、関連病院を含めると現在ニューヨークで最大規模の医療機関です。
Rossの研究室は、大学の細胞・発生・再生生物学部(Department of Cell, Developmental & Regenerative Biology)に属していました。Rossのオフィスの壁には誇らしげにギターが。もともと音楽家を志していましたが、科学も楽しそうだと目移りして科学者に。転じた後の彼は、ハエの複眼の詳細な形成過程を解明するなど、発生学の分野で大きな業績を残してきました。
移動後初日の朝一番の仕事は、いきなり彼らとのミーティングでした。引越し疲れでロクに働かない頭に、東海岸の早口英語や馴染みのない専門用語はとてもこたえました。しかし、初志を貫徹すると決意して実現したこの留学、何があっても諦めないぞと踏ん張って、ひたすらハエと遊び続けました。対象をがんの発症機序の解明と治療薬開発に変えた彼の研究室で、私は自分が創りたかったハエ遺伝学に立脚したがん治療薬の新規開発基盤の確立に取り組みました。学内外の創薬化学や計算機科学の専門家とも共同研究を実施しながら試行錯誤を繰り返す日々は、初めて飛び込んだハエの分野の新鮮さとも相まって、それまでとはまた異なる知的刺激に満ちたものとなりました。
この間、いろいろな意味で「大きさ」を実感したのがニューヨークでした。観光にはまずこと欠きません。地下鉄の行動圏内に、自由の女神やタイムズスクエア、メトロポリタン美術館など、回りきれないほどの名所が。職場は広大なセントラルパークに隣接しており、晴れた日には家族と共に気持ちの良い散策が楽しめました。
さすがに物価はとても高く、住居費だけでも日本の大都市比で軽く2倍以上は必要です。しかしそれに見合うだけの文化的魅力が、世界中から人々を惹きつけてやみません。
学術面も同様で、近距離にコロンビア大学やメモリアルスローンケタリングがんセンター、ロックフェラー大学など錚々たる研究機関が密集しており、優秀な人材が続々と街に集まってきます。ボストンやワシントンDCとも近い地理的条件も相まって、セミナーや共同研究の議論があちこちで毎日のように行われていました。地の利が科学を発展させる好例だと感じました。
加えて、日本人も数多く住んでいます。彼らとの繋がりを得た私は、研究者か否かを問わず現地邦人のネットワーキングを促進したい、そして一般の人にも最先端の科学を広く知ってもらいたいと考えるようになりました。そこで、有志の医療従事者や研究者とともに、ニューヨークに拠点を置く米国日本人医師会(JMSA)と連携し、科学フォーラム「JMSA New York Life Science Forum」の開催を企画しました。「専門用語を使うことなく最先端の科学を知ってもらい、社会の科学力の底上げを図る」という独自のコンセプトを日本学術振興会も支援してくれることになり、毎年の会には数百名が参加、うち3割以上が一般からの参加という規模にまで育てることができました。UJAでご活躍の川上聡経さんと出会ったのもこの頃で、研究室を相互に訪問し、研究だけでなく在外邦人のネットワーキングについても意見交換ができたことは大変有意義でした。
さて、研究面でようやく自分が納得できる成果がまとまってきたのは、留学開始から丸4年が経過した頃でした。がん治療薬の最大の問題の一つは、服用した患者に極めて高い毒性をもたらしてしまうことにあります。実際、治療薬候補の治験の多くは、患者が耐えられない毒性のために失敗に終わってしまっているのです。そこで私が取り組んだのが、「既存薬の毒性を招来する阻害標的を化学遺伝学的手法で同定する。そして、この阻害が発生しないようにその既存薬の化学構造を改変することで毒性を著明に低減し、治療効果の高いリード化合物を生み出す」という新しい論理的創薬手法の開発です。実際にそのようなリード化合物を創り出すことに成功し、紆余曲折あったものの最終的にこの成果を論文として発表することができました。加えて、原著論文をもう1報、総説論文を1報と、5年間の留学で最終的に計3報を発表することができました。
原著論文については、昨今の医学・生物学論文の例に漏れずregular figuresよりもsupplementary figuresの方が多くなりました。しかし、仲間と家族に支えられて作り上げた一つひとつの図はまるでアルバムの写真のようにとても思い出深く、現在でもとても大切な宝物であり続けています。
留学中の恩師のRossとともに(2017年撮影)
独立
このようにアメリカで研究に従事しつつ、築いたネットワークを通じて科学・一般問わず様々な声を集める過程で、自分のやりたい方向性が徐々に固まっていきました。すなわち、「がんの基礎研究・応用研究の両方を推進したい、そしてがんの中でも特に膵がんなど治療法開発が困難な難治がんに取り組みたい」と考えるようになったのです。これを実現するために、私は以前にも増して独立を強く意識するようになりました。アメリカで独立する選択肢もあったのですが、母国で後進を育てたい気持ちや、子供も現地校への通学を続けていたために渡米の目標の一つだった英語をかなり身に付けることができたなどの様々な状況を勘案し、最終的に日本でのポジション獲得を目指すことにしました。
アメリカからの情報収集や応募、インタビュー参加などは、事前に想像していたよりも難しいものでした。しかし、自分がそれまでに成し遂げてきたことを信じて地道に取り組み続けた結果、ついに現職に採用してもらうことができました。ずっと応援してくれていたRossも、本当に喜んでくれました。彼をはじめとしてずっと支えてくれた仲間たちに別れを告げるのは心底辛かったのですが、一層の飛躍のための別れだと逆に励まされ、渡米から5年が経った2018年の夏、ちょうどJ1ビザの有効期限最終日に、アメリカを後にしました。
実は、北海道大学にはそれまでほとんどご縁がありませんでした。教授選のインタビューが2回目の訪問だったくらいです。しかし、自由かつ主体性を重んじる校風が私には大変合っているように感じられ、現在までとても居心地良く過ごせています。ただ着任当初は、アメリカからグラントはおろか研究機器も人も、新しいラボに何一つ持ち込めるものがなかったため文字通り身ひとつで、一体どこから手をつければいいのかと途方に暮れることもしばしばありました。
そこに追い討ちをかけたのが、北海道胆振東部地震や台風21号でした。帰国直後の札幌でAirbnbに宿泊していた私たち家族は、アメリカでは一度も遭遇しなかった地震や台風に見舞われ、「そうだ、日本は天災が多い国だった」と思い出すことになりました。水を汲める場所や買い物ができる店もろくに分からないまま戸惑うばかりでしたし、新しいラボスペースに行っても、突然襲ってくる余震に一人で怯える日々。本当にやっていけるだろうかと不安ばかりでしたが、そんな時私を助けてくださったのが、周囲の先生方やそのラボのみなさんでした。助け合って困難を乗り越えていこうとする北海道の開拓者精神に大いに励まされ、感謝の気持ちで一杯でした。研究所からも広いスペースと貴重なスタートアップ研究資金を戴き、本当に支えていただきました。
そして、様々な人にやりたい研究や研究室の理想像を伝えて人を探し、グラント申請書を一生懸命に書き続けた結果、ありがたいことに志を同じくする若い人たち(自分もまだ若いつもりですが)が徐々に集まってきてくれるとともに、グラントも採択の知らせが少しずつ届き始めました。独立してまもなく1年という頃、とうとう自分たちのラボで出した初めてのデータでラボミーティングを行うことができ、「ついにここまで来ることができた」と、とても感慨深く涙が出そうになりました。
今ではラボも、私を含め総勢12名まで増えました。日々真剣かつ楽しくサイエンスに取り組める喜びを噛み締めています。セミナーをやってほしいとRossを招聘したところ、はるばる札幌まで来てくれて、「お前がきちんとラボを立ち上げて運営できているのを見て本当に嬉しい」と自分のことのように喜んでくれました。最近のCOVID-19はラボにとってもさすがに予想外でしたが、なんのなんの、一丸となって研究に邁進している我々を止めることなどできるわけがありません!
最後に
振り返ってみると、私は本当に人との出会いに恵まれていたと感じます。二人の素晴らしいメンター、すなわちサイエンティストのなんたるかを厳しくかつ温かく指導してくださった武藤先生と、独立の気概を尊重して全面的な支援を続けてくれたRoss。また、異国の地でまさに「同じ釜の飯を食べ」、踏ん張って助け合った日本人同胞のみなさん。札幌に来て右も左も分からなかった時に公私両面に渡って支えてくださった周囲の方々。そして現在のラボの仲間たち。自分ひとりの力では到底ここまでたどり着くことはできませんでした。そういった人たちとは現在でも強い繋がりを維持しており、これから少しずつでも恩返しをしていくことができれば、そして、自分の研究室もそういった気持ちを大切にする人たちを育てていければと願っています。
大学院生の時には、将来のキャリアパスを具体的に思い描こうとしてもなかなか果たせず、漠然とした不安を抱くこともありました。ポスドク、留学中も然り。しかし、その時々に感じた自分の思いを大切にしたことが、今の自分を作る大きな要因になったのではないかと思います。意志あるところに道あり。私の座右の銘ですが、まさにその通りだと感じています。実際、ここまで好きなことを存分にやれるとは想像だにせず、本当に幸せな研究者人生だと感じています。
しかし、これはまだまだ通過点。これからもどんなに楽しく知的刺激に満ちた旅が続くか、大変楽しみにしています。一緒に旅をしてくれる新しい仲間も随時募集中です。もしも人と違った視点からがん研究に取り組んでみたいと思われましたら、ぜひご一報ください。また、現在助教も募集しており、がん研究や教育に興味のある方のご応募を心よりお待ちしています。私でよければ、進路相談もお受けします。
最後に、読者のみなさんの留学生活やキャリアパスがより実りあるものとなるように祈りつつ、擱筆いたします。
謝辞
執筆の機会を与えてくださった川上聡経さん(UJA)、研究だけでなくネットワーキングの面でも大きな支えとなってくださったJMSA(米国日本人医師会)、研究に対して多大なる理解と支援を頂戴している各省庁・財団、そして、どんな困難に遭遇してもここまで一緒に歩んでくれた家族に、心から感謝の意を表します。
研究室のメンバーも順調に増え、研究体制も充実してきました。前列向かって一番右が筆者。(2020年7月撮影)
著者略歴
園下 将大。1999年東京大学薬学部卒業。2001年東京大学大学院薬学系研究科修士課程修了。2004年京都大学大学院医学研究科博士課程早期修了。日本学術振興会特別研究員DC1、同PD、京都大学大学院医学研究科助教、同講師、同准教授、Icahn School of Medicine at Mount Sinai (NY, USA) 博士研究員等を経て、2018年より現職。連絡先:msonoshita@igm.hokudai.ac.jp 研究室HP:https://bmoncology.wixsite.com/mysite