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5年間のボストン生活を終えて

更新日:2021年5月3日

公益財団法人がん研究会がん研究所

北嶋 俊輔


はじめに

留学先であるボストンから帰国して半年が経ちます。自分のダナファーバー癌研究所での5年間の留学時代を改めて振り返ると、いろいろな思い出が蘇ってくると同時に、楽しい時間は過ぎてしまったという寂しい気持ちが湧き上がります。研究も旅行などの遊びも、自分でできる限りのことはやったという満足感はあり、心残りがあるというわけではないのですが、やはりそれだけ私にとって公私ともに大変充実した5年間だったということだと思います。このような執筆の機会をいただき、本来は留学後の新しい場所でのプロジェクトの立ち上げの経験などを語れるとよいのかなと思ったのですが、帰国後すぐのSARS-CoV2のパンデミックに世の中はすっかり影響を受けてしまい、一般的な状況ではなくなりました。職場に行けない時間が長く続き、新しい人と知り合う機会も激減しました。そんな中、精神的な安定をもたらしてくれたのは家族であり、留学先で知り合った友人たちとの近況連絡であり、留学先のラボのPrincipal Investigator(研究室主宰者;PI)であったDr. David Barbieが、今でもいつも気にかけてくれ頻繁に話し相手になってくれたことでした。


ボスとの出会い

留学記としては非常に月並みな表現になってしまうのですが、それでも言いたいのは、私は本当に人に恵まれたということです。特にボスであるDavidには言葉を尽くして感謝を述べたいのですが、なかなか自分の稚拙な文章力では感情を全て表現することができません。


留学先を選ぶということはとても大変なことです。自分のそれまでの実績や奨学金獲得状況、先方の状況に大きく影響を受け、行きたいところに行けるわけではないと思います。研究内容の互いの興味の合致が優先事項であり、学部のときの研究室配属のように先生の性格や雰囲気などまで考慮して複数の候補から選ぶ、という余裕のある方は少ないのではないのでしょうか。自分も実際そうでした。特に海外研究者との人脈がなかった自分のような人間にとって、海外学振をはじめとする日本の主要な奨学金に応募するための最大の障壁は、受け入れ先研究室からの承諾書の取得にあると思います。当時、私は若手研究者の国際派遣事業に採択されたことをきかっけに、ボストンに1週間ほど滞在し、直接研究室を訪問して、「奨学金に採択さえすれば」という条件つきでの受け入れ承諾書をもらうために最大限の努力をしました。事前にアポを取るためのメールの返信をもらうことから非常に困難でしたが、人生で1番自分を奮い立たせて頑張ったときかもしれません。


私がDavidと初めて会ったとき、彼は独立したての30代後半の若手PIで、ラボにはポスドク1人と技官1人でした。とてもPIのオフィスとは思えない質素な小部屋で、私のおそらく意味不明な部分も多い下手くそな英語を、こっちが不思議なぐらい笑顔で大きく頷きながら聞いてくれたことが印象に残っています。彼は、当時現在ほど盛り上がっていなかった抗腫瘍免疫分野に関する自身の見解を熱く語ってくれ、その内容に惹かれただけではなく、他のPIの方より圧倒的に親近感があり、積極的に連絡を取り合いました。彼は快く承諾書を書いてくれ、奨学金を無事に獲得して、私の留学生活が始まりました。私のDavidの第一印象は正しかったどころか、それ以上の人のよさで、言葉のみではなく心から本当に他人のことを思って行動してくれる人物です。自分がいつか人の上に立つようなことがあれば参考にしたいと強く思ってはいますが、きっと彼のようにはなれないでしょう。


自宅の庭で肉を焼くDavid


ボストンにはハーバード大学やマサチューセッツ工科大学などに所属する有名研究施設が乱立し、世界の研究を牽引する超一流の研究室があちらこちらにあります。一方で、日本の「助教」とは全く意味の違う、真に独立した「Assistant Professor」が数人のメンバーとともに運営する若手ラボが無数にあります。大企業に就職するかベンチャー企業に就職するかのような、どちらにもよい点、大変な点がそれぞれあると思います。いわゆるベンチャー側に就職した私の場合、特に最初の数年は、ダナファーバーのラボとしてはお金が潤沢にあった方ではないと思います。小さいラボなりに苦労したこともありました。ただ、大御所ラボではきっと得られない、ものすごく近い精神的距離感で彼からたくさんのことを学ぶことができました。本帰国の直前に2人で食事をしたときに、お互いにとってWin-Winの5年間だったな、というようなことを最後に言ってくれたとき、自分の留学はたぶん成功だったのだなと思ったものです。私が幸運にもビックラボに潜入することができたとして、10-20人の優秀なポスドク達の中にあって、そこから抜き出て何かボスの記憶に残るほどのことができたかどうか。実際、5年間の間にラボは人数的にも面積的にもどんどん大きくなり、彼のタイトルもどんどん箔がついていき、留学期間中にボスの出世をこれだけ体感する人も珍しいのではないかと思っています。自分で言うのはおこがましいですが、このラボの変遷に自分が貢献できた部分はあると思っていて、小さなラボとしてスタートしたときからのメンバーであることによって、他では得られにくい信頼感を得られたという満足感はあります。自分は本当に人に恵まれたと思います。


息子のがんばり

自分が留学を開始した2015年の冬のボストンは記録的な大雪でした。ボストンへの留学前に金沢に住んでいたため雪には慣れていたつもりでしたが、渡米後すぐに1歩も歩けないような積雪でした。ラボは閉鎖され、ボスから「こんなことは普通じゃないから」という励ましのメールが何度も来たのが彼との最初のやり取りの1つになります。多少天気も落ち着き、氷点下10度を下回るような極寒の中、これからボストンで毎日過ごせるのだという高揚感を抱きながら、永遠に来ない66番のバスを凍えながら待っていたことをこの前のことのように思い出します。当時2歳だった息子は5年間ですっかりボストンの冬に順化してしまったので、東京の夏にすっかりやられてしまい、今では頻繁に北海道へ行きたいと言っています。


ボストンから成田へ向かう本帰国の便の中で1番強く感じていたことは、自分たちの都合で本当に苦労をかけてばかりだ、という息子に対する謝罪と感謝の混ざったような気持ちです。本帰国の便には彼の母親はいませんでした。諸事情は省略しつつも、妻は仕事の関係で1年早く帰国しており、母親のいない中で最後の1年間がんばってくれました。日本人が多いはずのボストンにあって、辺境の地に住んでいたため、全く日本人がいない学校に放り込まれておきながら、今度は突然親の都合で、わけもわからず友達と別れ、彼にとっては異国の地である日本に連れていかれるわけです。国外はおろか18歳まで福岡の実家から出たことがなかった自分からすると想像もつかない生活環境の激変です。彼が肉体的にも精神的にも強く元気でいてくれたことがなによりでしたし、これから頑張って日本で安定した生活の基盤を作っていこうという贖罪にも近い強い動機になっています。


研究と離れて、家族で過ごすアメリカでの生活も貴重な留学生活の一部です。それぞれの人がそれぞれの意見をもっていて、金銭面を含めた様々なリスクがあるのかもしれませんが、家族として滞在することができ、日本では体験できない多様な出来事を共に体験することができたことはとても素敵なことだったと思います。一方で、独身や単身赴任の方々と比べると、日本人コミュニティに参加する時間が取りづらく、人の輪を広げるチャンスを少し失ったように思います。よく言われる、日本にはない、あらゆる「雑さ」が生活にあり、たまに一線を超えてトラブルの元になりましたが、基本的には心がおおらかになり笑えるようなことばかりでした。荷物を詰めすぎたとはいえ、日本からの荷物が末期的な状態で届いたときのことを強烈に覚えています。内装ぼろぼろ築100年の家に住み、部屋の天井が落下したときは唖然としました。私と妻は、趣味の自転車で国内をうろうろするのが好きで、旅行が楽しそうという不純な動機で最初はヨーロッパを中心に留学先を探したような人間なので、時間をみつけてはヨーロッパ、中南米、アフリカへ遊びに行きました。改めて数えてみると5年間で計26カ国も訪れました。留学を通じて、あらゆる面で自分の世界観が広がるのは間違いないと思います。


崩落した我が家の天井。崩壊した段ボール。


終わりに

今海外で活躍されている方、これから留学をめざす方にとって、今年のSARS-CoV2のパンデミックは、人生設計に影響をおよぼしかねない重大な出来事だと思います。刻一刻と状況が変化する非常時に、一次情報が外国語であることは極めて不安だと思うし、渡航制限やビザの発行制限など自分の力ではどうすることもできないことのために留学を延期あるいは諦めざるをえない方がいることは、かつての自分のことと重ねて想像するとやりきれない気持ちになります。早く世の中が落ちつきを取り戻すことを切に願います。ここには書ききれませんでしたが、本当にたくさんの友人と同僚に助けてもらうことばかりで、国内にいてはこれほどまで他人に感謝する機会はなかったのではないでしょうか。本当にありがとうございました。本帰国から早くも半年が経ち、日本に戻ってきたことが本当によかったのか悪かったのか自問自答の日々が続いています。家族ともども非常に満足した5年間だったため、ボストンにい続けるためにもっと行動すべきだったのではないかと思う一方、家族や自分の年齢、パンデミックのことを考えると、帰国のベストタイミングだったのではないかと思い込もうとしています。現時点では明確な答えはなく、人に留学や研究のうんぬんをアドバイスできるような人物でもないので、自分のための体験回顧録のようになってしまいましたが、少しでも何かの参考としていただけると幸いです。


イースター島にて


著者略歴

北嶋 俊輔。2004年名古屋大学農学部卒業。2006年京都大学大学院医学研究科修士課程修了。2010年京都大学大学院医学研究科博士課程修了。金沢大学がん進展制御研究所 特任助教、日本学術振興会 海外特別研究員、Dana-Farber Cancer Institute (MA, USA) リサーチフェロー等を経て、2020年2月より公益財団法人がん研究会がん研究所細胞生物部 研究員、日本学術振興会 卓越研究員。連絡先 shunsuke.kitajima@jfcr.or.jp

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