研究留学を終えて帰国する機上にて
京都大学
井上 詞貴
2012年から2020年6月まで、UCSFのNadav Ahituv研究室に在籍していました。8年間に渡る研究留学を終え、2020年7月から京都大学・ヒト生物学高等研究拠点(ASHBi)に赴任する予定で、帰国の機上でこれを書いています(6月8日現在)。空港はがらんどう、機上では乗客が距離をとって座り、客室乗務員はマスク、手袋に保護メガネと、一種異様な雰囲気です。
UCSFに来る前は、神戸理化学研究所、発生再生科学総合研究センター、相澤慎一研究室で約4年間ポスドクをしていました。相澤研では、前方脳を規定するOtx2遺伝子の転写制御エレメントにフォーカスし、脊椎動物(マウス)の「あたま」がどのようにできるのかについて研究を行っていました。遺伝子が「いつ」「どこで」「どのくらい」発現するのかを明らかにすることは、脳の発生に限らず生命現象のあらゆるシーンで重要であり、ゲノムの中には重要な機能エレメントが未発見のまま眠っているはずです。相澤研での仕事を終えた2012年当時は、ゲノム中の機能エレメントの大規模発掘作業(ENCODEプロジェクトなど)がアメリカを中心にゴリゴリに行われている時でした(今も続いていますが)。そこで私は、ゴールドラッシュ期の49ersさながら、サンフランシスコに研究留学することにしました。
さて、留学というのはやはりリスキーであり、成功するためには何かを犠牲にせねばなりません。それはお金であったり、日本の便利な生活環境、美味しいお酒や食べ物であったり、日本人研究者界隈との繋がり(コネ)であったりします。特にパートナーがいる場合、そのキャリアがどうしても犠牲になってしまいます。また、パートナーが留学先の生活に慣れなかったり、出産、育児、教育上の困難があったりと、研究に専念する期間に制限が生じてしまうこと事も多々あるでしょう。研究留学を成功させる以前に、私たちは私たちの人生を成功させる使命を負っているのであり、家族の幸せは最優先です。
このこと事に対して私たちがどの様に取り組んで、8年という長期間を乗り切ったのか、以下、妻の寛美を語り手として、私たち家族のケースをお伝えできればと思います。
夫の留学先での貴重な経験
井上 寛美
この8年間に、就職・転職、さらに出産・育児などの経験をしてきた私なりの目線でこの研究留学を振り返ってみたいと思います。
渡米前は、修士課程修了後、夫と同じ神戸理研でテクニカルスタッフとして働いていました。当時は、大脳皮質誘導に関わる遺伝子を片っ端からノックアウトして表現系を見る仕事をしていて、朝から晩までマウスと格闘していました。配偶者の研究留学が決まって最初に決めることは、まず「ついて一緒に行くか行かないか」だと思いますが、私は特に迷うことなく行くことにしました。最大の理由は、留学期間がどのくらいになるのかも不明で、帰国できる保証もなかったからです。
同行すると決めたら次に考えるべきことは留学先で“私が”何をするかです。「ただ付いていくだけではもったいない。日本で学んだ技術や経験を生かせる場所がアメリカにもあるはずだ!」と考え情報収集を始めました。そして、アメリカでは同行家族も仕事ができること(Jビザに限る)を知り、大学やバイオテックで技術職を探そうと決めました。また家族としては、「生活が落ち着いたら子供を持とう」と話し合い、渡米の日を迎えました。
2012年、なんだか素敵な響きのするサンフランシスコは、深い霧に覆われ、また町中にホームレスがたくさんいて、想像していたのとは少し違う街でした。もちろん言葉も通じず、友人もおらず、不安しかない中で私の新生活はスタートしました。一方、夫は毎日楽しそうにラボへ通っています。夫のラボの人たちはみんな優しく、よく一緒に遊びに出かけていましたが、どこかで疎外感を感じてしまうこともありました。楽しそうに研究の話をするのを見るにつけ、私も早くラボに戻りたい、との思いが強くなりました。
そこで早速仕事を探すために労働許可証(EAD)の申請を行いました。まずは、移民局(USCIS)とUCSF留学生センター(ISSO)のHPを参考に必要書類を準備しました。書類の準備自体は難しくありませんが、婚姻証明書など日本にいるうちに取得しておくべき書類もあるので注意が必要です。念のため、ISSOのJビザspecialistに書類を確認してもらいました。SpecialistからはEADを使って働く際の注意点なども聞くことができ、大変有益でした。
労働許可が下りるまでの4ヶ月間、英語を学ぶためにCity College of San Francisco (いわゆるcommunity college)へ通いました。アメリカ各地にある community collegeは移民のための英語クラスを無料で行っています。さらに有料になりますが、大学への編入のための単位や働くための資格(Medical interpreterなど)も取得できる学校です。City Collegeでは正直英語を学んだと言うよりは国際交流に励んだと言う方が正しく、サンフランシスコへ来て以来塞いでいた気分が日に日に晴れていったのを覚えています。また、クルド難民として祖国を離れてきた人や、離婚で得た慰謝料を抱えてアメリカで第二の人生を歩もうとしている人など、様々なバックグラウンドを持つ友に出会えたことは、自分の価値観を見直す契機となりました。
さて仕事探しですが、渡米後しばらくして図々しくも夫のPI(Dr.Nadav Ahituv)に「私も働きたいと思うのだけど、サンフランシスコの大学やバイオテックで職を得るにはどうしたらいいか」とメールを送りました。Nadavは留学が決まった当初から、私のこともとても気にかけてくださっており、働くように背中を押してくれたのも彼でした。と言うのも、彼の奥さんもまた慣れない異国での生活に苦労された人でした。大学のJob searchのサイトやLinkedInやBioSpaceなどのサイトに登録するように勧められ、EADの取得とともに応募を始めました。すると数日後、見知らぬ番号からの不在着信とともに音声メッセージが残されていました。この当時はメッセージが何を言っているのが分からなくて、何度も何度も聞き直してやっとそれが転職エージェントからの電話だと理解するくらいの英語力しかありませんでした。それから自分の経験とマッチするような募集にはどんどん応募しましたが、全く連絡がありません。また、何かアドバイスをもらおうと、当時まだ会ったこともなかった夫の隣のラボのシニアテクニシャンにアドバイスを求めるメールを送ったこともありました。
そうして、時に挫折しそうになりながら仕事探しを初めて1カ月ほど経った時、Nadavから「マウスを扱えるテクニシャンを探している人がいるんだけど…」とメールをもらったのです。急いで教えてもらった連絡先にメールを送ると、すぐに面接をしてもらえることとなり、夫の協力で模擬面接の練習を重ね、結果無事に採用となりました。採用されたのはUCSFの血液内科のラボで、造血幹細胞を増殖させる低分子化合物のスクリーニングに従事しました。このラボで経験した中で一番大きかったことは、UCSFの中の事務やラボ運営システムを学んだり、人脈を広げられたことでした。また、最初は同僚が何を言っているのかほとんど分からなかったのが、1年後には業者との電話対応もできるくらいには英語に慣れてきました。今振り返ると、「英語なんてものはただの“慣れ”で、アメリカでの職探しに必須のスキルというわけではない」と思います。元々2年間の研究費ポジションだったこともあり、このラボは2年弱で退職することとなりました。また、退職の2カ月後には出産を控えていました。
2015年1月、働いていたUCSFの病院で娘を出産しました。初産は遅れることが多いと聞いていたのに、予定より1週間早く産まれてしまい、頼りにしていた母は出産には間に合いませんでした。出産自体も一大事ですが、産後の社会復帰も私にとって重要なことでした。まず、UCSFの産休は0−6週間しかないため(ポジションにも依る)、多くの女性がこの期間に仕事復帰をします。したがって、0歳児を預かってくれるデイケアは争奪戦になります。基本的には早い者勝ち(大学付属の場合は学生が優先されます)なので、出産前から複数のデイケアに申し込みをしました。デイケアには大きく2種類あって、日本の保育園にあたるのが大学や企業に付属しているようなデイケアセンターになり、それ以外に個人宅で少人数の子供を預かるファミリーケアというものもあります。幸い自宅近くのファミリーケアから、6月から空きが出るからと連絡があり、お願いすることになりました。
Golden Gate ParkにてAnna Molofsky labメンバーと。
井上 詞貴(後列左端)、井上 寛美(前列左端)、井上 千遙(娘)、Anna Molofsky博士(前列中央)
6月からの仕事復帰に向けて、娘が生後2ヶ月を過ぎた頃に職探しを始めました。小さい子供がいることがハンデになるのではないか、また一度目の職探しのように苦労するのではないかと予想していたものの、一ヶ所目の応募ですぐに決まりました。Nature、Scienceを連発し、UCSFで独立したばかりのAnna Molofskyラボのラボマネージャー職でした。やはり外国人を雇う場合には雇い主にもリスクが伴うので、一度アメリカで仕事をし、アメリカ国内での評価を得るとその後の職探しはスムーズにいくようです。
社会復帰に際しては、産後の体力低下、睡眠不足、搾乳のタイミングなど、出産前と変わらず仕事ができるのか、そして初めて娘と離れるということに対しても大きな不安がありました。しかし、Annaが私のために授乳室(電動の搾乳機が設置されている個室)の使用許可を取っておいてくれたりと暖かく迎えてくれ、比較的スムーズに復帰することができました。Anna自身が2人の子供を育てる母親であり、彼女からは仕事の面だけでなく仕事と家族のバランスなど色々と学ぶことがありました。
アメリカでは性別・役職に関わらず子育て世代は子供の学校が終わる時間には帰宅します。必然的にラボでの滞在時間が短くなるので、仕事への適切な優先順位の付け方や迅速な判断、他者との協力、休日出勤など仕事に効率が求められます。どのように仕事復帰するかも個人の裁量によるところが大きく、私の場合は最初の1ヶ月は週3日娘を預け、残りの2日は夫と分担し半日在宅勤務という形にしました。私たちの周りでも父親の育児参加が活発で、母親の残業や週末出勤にも対応でき出来る家庭が多くありました。職場環境だけでなく家庭環境も、母親の社会復帰、女性の社会進出のために重要です。多くの男性が子育てに参加したくともできない日本の社会に対して、アメリカの環境・文化では、女性にとっては社会進出の機会が、男性にとっては育児参加の機会がより開かれているのです。
ラボマネージャーという仕事は日本では馴染みの薄いポジションですが、技術支援だけでなく、ラボの物品購入管理、会議などのオーガナイズや他のテクニシャンや学生の指導、安全管理業務や研究費申請などの事務作業の手伝いなどもするポジションです。Anna自身も独立したばかりだったので、この5年間まさに二人三脚でラボの運営をしてきました。今では10人を超えるメンバーがいますが、始めはもう1人のテクニシャンと3人で、何もない広い部屋で仕事を始めたことを昨日のように覚えています。日本ではなかなか得られないであろう、一からラボを立ち上げるという楽しい作業に参加できたのは、研究の本場アメリカで働いたからこその経験だと思います。また、今まで何人もの研究者と仕事をしてきましたが、彼女ほど勝負師と呼ぶに相応しい人と働いたのは初めてで、常に世界のトップを狙う緊張感のある中仕事をできたのは大きな経験になりました。ベイエリアという科学とテクノロジーの最先端の街で、その最先端を走る人たちと仕事を通じて交流できたこと、そして彼らの目線の先にある世界をともに見ることができたことは、言葉では言い表せない貴重な経験となりました。
私たちの研究留学がこんなにも実りあるものになったのは、AnnaやNadavをはじめ友人や同僚たちに支えられ、私たちが自己実現できるチャンスと環境を与えてくれたからに他なりません。百人の留学生がいたら百通りの留学がありますが、周囲の人たちとの助け合いが一番大切な成功の秘訣であることは共通していると思います。長々と書いてしまいましたが、ご参考になりましたら幸いです。
著者略歴:
井上 寛美
(元)UCSF, Anna Molofsky lab, lab manager
e-mail:hiromininoue@gmail.com
井上 詞貴
京都大学ヒト生物学高等研究拠点(ASHBi)、特定拠点准教授
e-mail:inuefmtk@gmail.com