22世紀に美しい地球を残したい

更新日:5月9日

伊東 英朗


未だ未解明の世界最大の環境汚染


私は、これまで映画を2本製作し、国内外300カ所で上映活動をしてきました。そして今、第3作目の完成を目指しています。これら3作は、全て同じテーマに基づくものです。

3作目は、特にアメリカで上映し、アメリカの人たちにあることを伝えて行きたいと思っています。それは、核実験に伴うアメリカ大陸の長期に渡る放射能汚染です。

そしてその活動に伴い、世界で活躍する研究者、ジャーナリストのネットワーク化を目指しています。なぜなら、この問題は、世界最大の環境破壊と言われながら、ほとんど未解明だからです。



上記の図は、日本政府機関でもある気象庁気象研究所が作成したものです。

日本列島に降った雨の放射線を示しています。


1957年から65年くらいまでは非常に高い線量を示し、その後、1985年にかけゆっくりと下がっていきます。日本列島は、30年にわたり放射能汚染していました。


しかし1985年に雨の線量は下がったものの、セシウム137、ストロンチウム90の半減期は29年。

日本列島の土壌には、減衰はしたものの放射性物質が確実に存在しているのです。


しかし、この事実を多くの日本人は、知りません。


「知りません」というのは正確ではありません。日本人はこの事実を忘れたのです。

1950年から60年代の新聞を見ると、連日のように各地に降った放射能の雨が報じられています。そのことでカッパや傘が売り切れ、放射能の雨に濡れないようにという警告などが書かれています。また放射能の雨で日本中がパニックになったことが報じられているのです。

しかし、多くの人は、「雨に当たると頭がはげる」という諺まがいの言葉を記憶しているだけなのです。


ご存知の方も多いと思いますが、沖縄を訪ねると、今でも家々には水タンクが残されています。ドラム缶のような形のもの、瓶のような形のもの、コンクリートでできたプールのようなもの。それらは、雨水を溜めるためのタンクです。1950年代から60年代、真水が貴重だった沖縄では90パーセントの家庭が雨水を飲んでいたと言われています。直接的に放射能の雨を飲んでいたのです。


そのことを私たち自身に置き換えてみる必要があります。

私たちは、その事実を知った上で、乳児に放射能の雨水を積極的に飲ませるでしょうか。

もちろん飲ませる人はいないと思います。

しかし後になって考えると、知らずに飲んでいたことに対して「健康に影響を与えるほどの線量ではなかった」と言うのです。線量が低いから飲ませてよくて、線量が高いから飲ませない。と言う問題ではないのです。毒性のあるものはたとえ微量でも体内に取り入れるべきではないのです。

そして、そのことを「しかたがない」と捉えるべきではなく、最大限防ぐ努力をするべきなのです。


自身の子どもや孫に対して、「それを与えるべきか、そうでないのか」自分の側に引き寄せて考えなければならないのが、この放射能汚染の問題なのです。


それでは、日本列島に降った放射性物質は、どこから来たのでしょうか。

その一つが、アメリカの核実験でした。


アメリカは、1945年、広島・長崎へ原爆を投下。そのわずか10か月後、1946年7月にアメリカから遠く離れた太平洋の島で核実験を始めます。その後、1962年まで、17年間にわたり、米英で118回もの核実験を繰り返しました。

それら118回の核実験は、すべて大気圏内で行われ、爆発によって生まれた放射性物質は全て放出されたのです。


そして核実験場は、マグロ漁場にありました。


核実験は次のように行われました。

1946年 2回

1948年 3回

1951年 4回

1952年 2回 (11月1日 人類史上初となる水爆実験)

1954年 6回 (第五福竜丸が被曝、ブラボー水爆のきのこ雲高さ39km、幅40km)

1956年 17回

1957‐58年 9回(イギリス)

1958年 35回

1962年 40回



1946年当初、原爆実験が行われました。1946年、日本から戦利品として奪った戦艦を浮かべ、原爆を爆破させる実験(クロスロード作戦)の写真を目にした方は多いと思います。

その後も原爆の爆破実験は続けられますが、1952年、アメリカは、ついに水爆実験を成功させます。

この年は、日本のマグロ漁師にとって大きな転換期となる年でもありました。

それまで、アメリカによって太平洋に引かれていたマッカーサーラインという規制線が撤廃され、自由にマグロ漁場に行くことができるようになったのです。当時、1200隻とも言われる日本のマグロ船は、豊かな漁場を目指し太平洋へ飛び出して行きました。

しかし、そこは核実験ですでに強く汚染された爆心地だったのです。



当時のマグロ船は、木造船で、食堂すらない小さな船でした。(*写真:食甲板で食事をとる漁師)そのため、燃料やマグロを保管する場所が少なく、漁をすると船はとったマグロですぐにいっぱいになり、日本と漁場を頻繁に行き来する必要がありました。


日本から漁場までは、4000キロから8000キロ。片道およそ10日から2週間。漁場で2週間程度の漁を行い、船がいっぱいになるとまた2週間かけ日本に戻る。戻ると1週間で漁の準備を行い、また漁場に向かう、という繰り返しで、年間、6回から8回、日本と漁場を往復していました。

マグロ漁師は、爆心地周辺に年間3か月から4か月滞在していました。


信じがたいことですが、彼らは、核実験が行われる最中に、爆心地付近でマグロ漁をしていたのです。



この図は、核実験が始まって9年目にあたる1954年、水爆実験が行われた時の放射性降下物(アメリカ原子力委員会作成)の降灰エリアと、マグロ漁船 第二幸成丸の航路を重ね合わせたものです。第二幸成丸は、2月24日に日本を出港、4月15日に帰港。およそ50日間、航海しました。漁場は、水爆実験が行われているマーシャル諸島ビキニ環礁東側の海域です。放射性物質が降り注ぐ中、操業していたことが分かります。もちろん、汚染エリアを通過した船は、全て放射能汚染しているのです。



マグロ船、第二幸成丸は、4月15日(1954年)東京港に入港した際、政府の指示により放射能検査を受けます。

厚生省の記録によると、

通信士の頭髪、甲板員の帽子、操舵室などの船体、ビン玉やライトなどの漁具から高い線量が検出。そしてマグロが放射能汚染しており、廃棄を命じられています。

しかし、これは、核実験の最中に行った100回以上の漁のうちの1回でしかありません。


1954年、3月、厚生省(当時)は各港で放射能検査を行います。写真は、マグロ船の放射能検査をした時に使用した検知成績表です。(図は第八順光丸の検査記録)

「乗組員の身体」、「衣類」、「寝具」、「船体」、「漁具」、「魚類」など細かく放射線量を記入するようになっています。

マグロについては、100cpmを超えると廃棄されました。乗組員の頭髪などに反応があった場合は、風呂や散髪などの除染が指導されました。



放射能検査が始まると、マグロ船は、乗組員やマグロの安全を考慮し、沖縄沖など日本近海に漁場を変更します。ところが、爆心地から遠く離れ、安全だと思われた漁場のマグロも放射能で汚染していたのです。

赤丸は、日本政府の放射能検査の結果、汚染したマグロが漁獲された場所です。マグロ船が、爆心地から遠く離れ、安全だと思っていた沖縄周辺で漁を行ったことで、日本近海が放射能汚染していたことがわかったのです。

海の放射能汚染は、広範囲に影響し、深刻な状態になっていました。


1954年3月から12月までの10ヶ月間に放射能汚染が認められた船は、延992隻に及びました。

さらに翌年から100回以上の核実験が始まろうとしていた矢先・・・。



日本政府は『検査の必要がない時期に到達した』として12月31日わずか10か月で検査を中止を決定したのです。中止の翌日から、爆心地周辺でとったマグロはすべて水揚げされ、日本の食卓へと運ばれ、マグロ漁は、また、通常通り、爆心地で行われるようになったのです。


核実験に伴う騒動に終止符を打ちたいアメリカは、日本政府に対して、その後の責任を問わないことを条件とした見舞金7億2000万円を支払うことを提示。日本政府はそれを受け入れました。それに伴い、放射能検査は中止。全てに幕が引かれたのです。


あくまで仮定ですが、10カ月間で延992隻が被曝したことから、核実験中だけで延11000隻が被曝、乗組員延22万人が被曝したと考えられています。

また爆心地で強烈に汚染したマグロを日本人は食べ続けましたが、そのことで何が起こっているのか全くわかっていないのです。


フォールアウト



焚火をすれば、煙や火の粉、灰、チリは、空高く舞い上がります。舞い上がった灰は、風に乗って運ばれます。どこまで運ばれるかは、風向きや強さまかせです。


1954年に行われた水素爆弾のきのこ雲の高さは、およそ39㎞。吹き上げられた放射能チリは偏西風に乗り、数千キロ離れた場所まで運ばれ、雨と共に降り注ぎました。



この図は、アメリカ原子力委員会が作成した1952年の核実験による放射能汚染を示すものです。日本列島やアメリカ大陸に放射性物質が降っていることがわかります。


アメリカ原子力委員会は世界中に100か所以上のモニタリングポストを設置していたのです。

日本には5か所。沖縄県(嘉手納基地)、長崎県(原爆傷害調査委員会・ABCC)、東京都・(アメリカ大使館)、広島県(原爆傷害調査委員会・ABCC)、青森県(三沢基地)。

アメリカは、日本や自国アメリカを放射能で汚染することを知りながら核実験を続けたのです。

この事実は、アメリカ国民も知るべきです。


1986年アメリカ議会で重大な秘密が暴露されました。核兵器開発を行っていたマンハッタン計画下でアメリカ市民に対し放射線を浴びせる人体実験が行われていたのです。プルトニウムを注射する。妊婦に放射性物質の入ったオートミールを食べさせる。など残酷な実験でした。この問題が暴露されたことで、大統領は、調査委員会の設置を命じ、隠されていた事実が明らかとなったのです。



より優秀な核兵器を作るためには、より多くのデータが必要になります。原爆投下直後、広島、長崎に設置されたABCCも放射能の影響を調べる調査機関でした。アメリカ原子力委員会は、ありとあらゆる放射能による影響のデータを収集、分析してきたのです。

また医療被曝、原発作業員の被曝、原発事故後の被曝などの世界基準を設置している国際放射線防護委員会(ICRP)は、核実験を行ったアメリカ原子力委員会の機構の一部ともいえる全米放射線防護委員会(NCRP)が起源と言われています。

私は、今以上の被曝を食い止め、アメリカ原子力委員会が収集した膨大なデータを完全にオープンにし、人類の健康、平和ために利用、解明する国際的なプロジェクトが必要だと考えています。


私が、この事件を追いかけ始めたのは2004年です。被曝者や遺族の証言を集め、ほぼ毎年、このテーマで番組を作ってきました。しかし、放送しても放射能そのものに関心をもってもらえることはなく、反応もほとんどありませんでした。「こんなことをしてなんになるんだろう」「もう番組を作るのはやめたほうがいいんじゃないか」と思っていた矢先、2011年、福島第一原発事故が起こります。日本中に放射性物質がばら撒かれました。

福島第一原発事故を受け、2012 映画「放射線を浴びたX年後」、2015 映画「放射線を浴びたX年後2」を製作、上映活動を行ってきました。


今年、私は、あることを決意しました。それは、核兵器保有国アメリカで、映画を使った語りかけ活動をすることです。アメリカの人々に核兵器を開発する過程で、アメリカ大陸が放射能汚染し続けたことを知ってほしいのです。そして、そのことが知らされてないことを伝えたいのです。

僕はアメリカの人々に「あなたやあなたの家族、友人の健康と引き換えに核兵器を持っています。それでいいのですか」と問いかけたいのです。

そして、そのことを知ったアメリカの人たちに核の問題を考えるムーブメントを起こしてほしい。

改めて放射能というものについて世界中で議論してほしいのです。そのきっかけ作りをしたいと考えているのです。

そのためには、多くの協力者が必要です。研究者、科学者、ジャーナリスト・・・。世界中で連携し、この問題を考えて行きたいのです。

もし、これを読んだ方の中でこの問題にご協力頂ける方がいらっしゃいましたら、是非、お声がけください。


またこのプロジェクト実現に向けてクラウドファンディングを実施中です。

https://readyfor.jp/projects/FALLOUT/comments


著者略歴

伊東 英朗 映画監督、ディレクター

1960年愛媛県生まれ。1990年代、アーティスティックな映像制作を開始。ベルリンビデオフェスト、バンクーバー国際映画祭、イギリス短編映画祭などで招待上映される。2000年、テレビの世界に転じ、ドキュメンタリーを中心とした番組制作を行う。2004年、太平洋マグロ漁場で行われた核実験による被ばく事件の取材を開始。以来、毎年、同テーマで番組制作を行う。2012年、映画「放射線を浴びたX年後」を全国劇場公開、2015年には映画「放射線を浴びたX年後2」を劇場公開。上映は国内外300カ所に及雨。2017年からアメリカでの上映活動を開始。その後も放送活動を続けている。 2004年、地方の時代映像祭グランプリ、石橋湛山早稲田ジャーナリズム大賞、ギャラクシー賞 大賞、日本民間放送連盟賞 最優秀賞、放送文化基金賞、日本記者クラブ賞 特別賞、第86回キネマ旬報ベストテンなどを受賞。