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日本人研究者インタビュー企画 「ケンタッキー大学 河島友和さん」

更新日:2020年9月5日

UJAインタビュー企画では、海外で研究を行う日本人をお招きし、海外体験にまつわる様々なお話を伺っています。


今回はケンタッキー大学 植物土壌科学科でAssistant Professorを務める河島友和さんにインタビューを行いました。





河島さんは2002年に筑波大学を卒業し、その後カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)にて2009年に博士号を取得しました。


河島さんは学部生の頃から一貫して「植物の生殖」に興味を持ち、近年では細胞骨格の一つである「アクチン繊維」が制御している受精のダイナミクスや、ダイズを使った食糧増産に関する研究もされています。


海外大学院・海外ポスドク・海外PIと長きに渡って日本以外の国で過ごされた河島さんから、留学の楽しさや大変さ、海外での家族の事情などをお話いただきましたので、その一部を本記事でご紹介します。



UCLAでの博士課程時代


-なぜUCLAヘの進学を決めたのですか?


大学生の頃は教員になろうと思って教員免許まで取ったのですが、卒業研究をしていたら研究が面白くなってしまいました。それで研究の道へ進むことにしたのですが、当時は全然英語ができませんでした。研究者になるために英語のトレーニングもする必要があると分かると海外の大学院に行くというのが運命のように感じられ、それ以外の選択肢は全く考えませんでした。そう思い始めたのが4年生の7月上旬で、そこから出願準備を始めました。夏は筑波から東京まで通い、塾でGREとTOEFLの攻略に全てをかけました。出願先については筑波大学の先生と相談をして、植物の胚発生を分子レベルで研究できるラボという条件に合うUCLA, UC Berkeley, UC Davisの3校に決めました。その後、UC DavisとUCLAに合格し、UCLAへの進学を決めました。


-UCLAでの大学院生活は順調でしたか?


入って驚いたのですが、同学年に90人くらいいる同期のうち、最初の自己紹介で「植物がやりたい」と言ったのは僕だけでした。UCLAは3学期制で、1年目には10週ごとにラボをローテーションします。その後、2年に上がるときにマッチングをして、ボスと希望が合えばそのラボに所属して博士研究を始めます。1年目から毎日実験はするのですが、授業についていくのが大変で、1年目の実験はあまり覚えてないですね...


私はもともとどのラボに行くかを決めていたのですが、ローテーションの中で新進気鋭の若手の先生のラボを経験し、非常に心が揺れました。しかし、まだまだ自分で計画して進められる実験も少なく、指導してもらわなければ研究できないという弱さがあったので、スパルタで有名な大御所の先生を選びました。


そのラボでは、私の前の学生が博士号取得に9年かかっており、私は7年かかりました。アメリカの大学院では学生が何年も残ってしまわないよう、学科から指導教員へプレッシャーがかかります。私の場合も「あいつには一体何が起こっているんだ」と学科から問い合わせがあったようですが、ボスは突っぱねていました。もちろん、卒業に時間のかかるラボであることは知っていたのでネガティブな感情はありませんが、今思えば自分で提案してもっといろんなことができたように思います。



博士課程後のキャリア


-学位取得後はどのような経緯でシンガポール、オーストリアで研究をされたのですか?


博士号を取得したあと半年間はそのまま研究室でポスドク(博士研究員)として雇用されていました。その後、どこで研究員をしようかと考えた時、2つの候補がありました。一つは近くのUC Berkeley、もう一つはシンガポールの研究所です。カリフォルニアは生活費が高いので、提示されていた給与の1/3が家賃に消えることが分かっており、経済的な難しさが予想されていました。


一方で、シンガポールでは通常の給与に加え、アメリカで学位を取っていたため上乗せの給与という特典がありました。さらには家賃補助も出るため、給与の1/10程度で家賃が払えるという状況でした。


博士課程4年目に結婚をし、学生のうちに1人目の子供も生まれていたので、生活のことも考えてシンガポールで働くことを決めました。実はシンガポールのボスは学会で1度会ったことのある先生で、私が出した論文をみて「そろそろ卒業するんじゃないか」と連絡をくれました。


シンガポールでの研究生活4年目に、ボスがオーストリアのウィーンの研究機関への異動を決めたので一緒に行くことにしました。その後、論文も出てAssistant Professorに応募する段階になりました。漠然とウィーンに残りたいという気持ちがあったものの、ウィーンの研究所では内部昇進がありませんでした。また、ドイツ語が必要なことや、コネクションが少ないことから、ウィーンに残る道を断念しました。


そんなとき、大学院生時代のボスから「お前のための公募が出ている!」と連絡をもらいました。しかし、ケンタッキー大学には知り合いもいないし、中西部や南部の環境は経験がないからとボスに断りを入れました。そうしたら「お前はバカか、このご時世に選んでいる暇があったらアプライしろ」と言われて、「まぁ、アプライして落ちるのならボスの顔も立つしいいか」と思って出願しました。すると、面接に招待され、行ってみたらころっとやられてしまいました。ケンタッキー大学の方々がみんなすごく優しくしてくれるのです。これまで働いていたのは研究所だったので雰囲気が厳しかったので、ケンタッキー大学のフレンドリーな環境にはカルチャーショックを受けました。


実際に内定をいただいて、承諾を決めたのは2つの理由からです。1つ目には自分の好きな研究ができる環境があることです。必要な顕微鏡を好きに使うことができるし、実験機材は全て同じ階にあったことが大きかったですね。2つ目には家族にとっての住みやすさが良かったことです。ケンタッキー大学のあるレキシントンの隣にはジョージタウンという街があり、トヨタの北米工場やウイスキー関連、馬関連の仕事を務める日本人が多く生活していました。日本人コミュニティの大きさはやはり家族にとっても支えになっています。



家族との海外生活



-家族と海外で生活する上でどのような点に気をつけていますか?


大学院生の頃に結婚をし、妻は結婚を機に日本の会社をやめて、アメリカへ引っ越してきました。私はそれまでラボの友人とフラットシェアをしていましたが、到底一人では家賃が払えないので、結婚後はそこに妻が加わる形になりました。しかし、ルームメイトには彼女がいて、彼女の家にほぼ入り浸りになっていたので(してしまったので?)、フラットを自由に使わせてもらっていました。子供が産まれたあとは、私たちの母が子育ての手伝いにくることもありましたが、フラットを自由に使わせてもらったおかげで協力して子育てができました。また、子供が産まれた後にボスが給料をあげてくれました。そういうサポートがあるのはありがたいですね。


先ほどケンタッキーへの異動に家族の存在が大きく影響したと言いましたが、シンガポールへ移るときも家族のことを考えていました。収入面でのゆとりがあるので生活が楽ですし、日本との時差も少ないので過ごしやすくなります。その後、ウイーン・アメリカと異動していますが、できる限り家族と仕事が両立するような方法を考えています。



最後に

河島さんのこれまでの道のりを振り返ると、えいと思い切って飛び込んでみる行動力がチャンスを掴むのに役立っているように感じます。


本記事を読んでくださった方の中にも、海外大学院へ進みたいと思っている方も少なくないと思います。河島さんでさえGREやTOEFLに苦労した時代があったことを知れば、「なんだ一緒じゃん」という励みになることでしょう。


本インタビューは動画でも公開していますのでこちらからご視聴ください。


【海外研究者インタビュー】思ったら即行動!ケンタッキー大学 Tomo Kawashima







UJAでは今後も海外で活躍する方々へのインタビューを行います。ぜひ次号をお楽しみに!


(文章:石田光南)


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