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ムラビトを遠き南の島に向かわせたもの

執筆者:

三田 貴臣(Cancer Science Institute of Singapore, National University of Singapore)

留学先:

Dana-Farber Cancer Institute, Harvard Medical School

キャリアディベロップメント(Career Development)という言葉があります。日本では主にビジネスの用語として使われ、「キャリア育成」とも訳されます。しかし、それは受動的なものではなく、諸外国においては、自身のキャリアを高めるためのプランとして能動的な意味において使われます。この留学体験記を読まれている方の中には、すでに自身のプランについて考えている方も多くいらっしゃるのではないでしょうか。私は現在はシンガポールで研究室を主宰していますが、キャリアディベロップメントについて考えだしたのは、実はほんの少し前からの事であり、そもそもその概念について知ったのはアメリカに留学してからの事でした。 私は生まれてから留学するまでの約30年間、同じ都市で過ごしました。大学・大学院在籍中は他大学や他学部との交流はあまりなく、全国の学生や研究者がどのように考えているかなど、ほとんど知る機会はありませんでした。タイミングにも恵まれてアメリカのボストンに留学することになりましたが、日本のことすら知らないのに、世界の研究者たちが何を考えているかなど理解できるはずもありません。また、当時の私は、留学の年数及び将来のプランについては深く考えていませんでした。しかし、私は結果的にボストンで6年半過ごした後、遠き南の島、シンガポールで研究室を開く決意しました。 何が私を変えたのか。それには、幾つかの理由がありました。 1)キャリアディベロップメントプランとポスドクトレーニングの意義 私がボストンに留学して、最初にラボの先輩ポスドクたちから聞かれたこと。それは「ポスドク後に何をするつもりか」ということでした。しかし、当時の私は明確な計画や目標を持っていません。それをそのまま伝えたところ、他のポスドクたちは非常に驚き、半ばあきられました。逆に、私が同じ質問をすると、彼らは臆することなく「自分はPrincipal Investigator(PI:主任研究者)になってラボを持つのだ」と言います。そして、「その目的のために、今ここでポスドクトレーニングをやっているのだ」と。彼らの言葉には、不思議と野心的な雰囲気を感じませんでした。「PIになることは、研究を突き詰めていく中で当然目指すべき場所なのだ」と彼らは言いました。 今考えれば、それは当たり前のことかもしれません。それを知らなかったことを私は恥ずべきかもしれません。ポスドクというのは、文字通り「Post-doctor」であり、自分が置かれていた状況というのは「Post-doctoral Training Period」に他なりません。私は、ポジションとしてのポスドクという言葉こそ知れど、それがトレーニング期間であり、次のステップに行くための移行期間なのだということを認識していませんでした。 私にとって、この考え方を知ったことは非常に大きな意味がありました。留学の早い時期に、それを知ることが出来たのは幸いであったと思います。その後、ボストンにおいて、実際にキャリアディベロップメントプランを実践している、志の高い日本人研究者の方々に多数出会ったことで、私の中で完全に考え方が変わりました。それまでの、ムラ社会的な概念しかなかった私にとっては、これは大きな変化でした。 2)論文とグラントの優先順位の逆転 これに関連して、問いた質問がありました。「ポスドクトレーニング期間に学ぶべきことはいったい何か」。当時の私は、それは研究の知識や技術、論文の書き方としか考えていなかったと思います。しかし、それは大学院の時に学ぶべき内容と何も変わりありません。我々がこの特殊な期間に学ぶべきことは、それらに加えて、例えばグラント(研究費)の書き方(Grant writing)であり、人の育成(Mentoring)であり、そして研究室を運営するノウハウ(Lab management)のように思います。 私が幸運であったのは(あるいは不幸であったのは)、私のボスが、とにかくグラント書きをポスドクに要求したことです。論文書き以上に、グラント書きに時間を費やさせられました。たとえ良い仕事をしていても、グラントが無くなったら速やかにラボを去らねばなりません。実際、何人もの先輩ポスドクがラボを去っていくのを目にしました。私はボスの教えを受け、留学前を含む計7年半に約20のグラントを申請しました。途中で8連敗の期間があり、相当に気分は滅入りましたが、結果的に幾つかが採択され、何とかラボに残ることが出来ました。 そういった中で学んだのは、本当にしっかりとしたグラント書きが出来るようになれば、その後の研究の進め方や論文書きがかなり楽になるということでした。日本にいた時は、科研費を申請したこともありませんでしたし、学生の頃は論文を書くことが最優先課題でしたから、当然、論文の方がグラントの申請よりも大事だと考えていました。しかし、このようにボスの指導を受け、私の中で優先順位が完全に逆転したのです。 論文よりもグラントを優先させるというのは、給料も含めて全てを研究費からまかなうアメリカの構造においては、ごく当然のことであり、非常に合理的な考え方です。グラントの審査というのは、プロジェクトを始める以前の振るいがけであり、事前評価でもあります。徹底的なブレインストーミングで、仮説とそれを証明するための戦略を考え、このプロジェクトがもたらす意義について認識する。それが審査する者に魅了的に映らなければグラントは採択されません。むこうはお金を出す立場ですから、より現実性を求めます。グラントの申請課題に説得力が無ければ、実際の論文でもっと苦労するかもしれません。すなわち、グラントの申請というのは、単に研究費を得る目的だけではなく、論文の前哨戦ととらえることが出来ます。加えて、グラント申請では、プロジェクトだけではなく申請者のバックグランドや研究施設、共同研究者なども加味されますから、自身の研究環境が適切かどうかについてもフィードバックが得られます。私は、この付加価値を非常に重要視してきました。 私は、ポジションの獲得(いわゆるJob Hunting)においてもこのスタイルを取りました。すなわち、まずはキャリアディベロップメントを目的として作られたグラントに申請し、自身のプロジェクト、及び独立する為の計画に対する客観的な評価を仰ぎました。正直に言えば、このようにしない限りは自信をもって先へ進めなかった、というのが本当のところです。ただ、このような過程を経ることで次のステップに進む決意ができました。 3)2006年から海外で過ごしたこと もう1つ、私の考え方に間接的に影響したことがあります。それは、2006年に海外へ出たというタイミングです。2006年というのは小泉政権最終年、第一次安倍政権が発足した年です。ご存知のように、この年以降、日本では毎年のように首相が代わりました。加えて、日本では2011年には大震災に見舞われます。一方、アメリカも決して良い状況ではありませんでした。2008年にリーマンショックが襲い、その影響もあって、ブッシュ政権以降落ち込んでいたNIHグラントの採択率がさらに悪化し、研究者にとっては非常に厳しい状況を迎えつつありました。日本、アメリカともに国会はねじれ状態にあり、いわゆる「決められない政治」が続いていました。 すなわち、私がアメリカで過ごした2006年からの6年半というのは、日本、アメリカともに政治経済的に混迷の中にあった時期です。それを受けてか、いつも何となく不安な気持ちを抱えていました。おそらく、同時期をアメリカで過ごした方たちの多くは、少なからず同じような思いを抱いていたのではないでしょうか。そんな中、ふと目にしたのがシンガポールという国です。 4)シンガポールという国 シンガポール。国の経済成長を至上とした、徹底的に管理された民主主義。ほぼ一党独裁のこの国において、決められない政治ということはありません。問題があれば即座に対策が講じられ、必要とあれば直ぐに新たな仕組みを作る。何をすれば国が成長するのか、どうやったら評価されるのか、それを徹底的に分析し、利益が見込めるところには惜しみなく予算をつぎ込む。多数の企業が世界各地から進出し、膨大な数の労働者がアジア各国から流入する。街の至る所で建設が行われ、高層ビルが建ち並ぶ。一方、成果が上がらなければすぐに中断し、非情なまでに予算を削減する。この国では、時間軸が短縮しており、凄まじい速さで物事が進んでいきます。そこには、高揚感に近いモチベーションがあります。 また、研究面においても、シンガポールはこの15年あまり大きく成長してきました。研究施設を拡充し、世界中からトップレベルの研究者を招へいしてきました。日本からも、元京都大学の伊藤嘉明先生が研究室ごと移動された際は大きなニュースになりました。若手であっても、大型のグラントにも申請することができ、採択率もアメリカに比べると良い条件が続いています。これらは私にとって大きな魅力に映りました。 しかし、公平にお話するならば、シンガポールは全ての分野の研究にとって良い環境であるとは言いません。上記のように、シンガポールは基本的に国の成長を優先しますので、研究政策についても国主導で強く行われます。日本のAMEDを極端にしたようなものであり、研究重点分野や方向性は次々と変わります。例えば、自然科学に関しては、国民の健康や利益に結び付きにくい研究分野については、もしかしたら予算配分は十分ではなく、むしろ日本やアメリカよりも厳しい可能性があります。また、シンガポールは国としての人口が少ない分、大規模な臨床試験を行うには難があります。 一方、国が小さい分、統率が良く取れており、例えば創薬から第I相臨床試験に移るプロセスは比較的スムーズに行える印象があります。実際に、このようなトランスレーショナルリサーチは、シンガポールが今まさに力を入れている分野でもあり、私の場合はこのスタンスが私の目指す方向に合致しましたので、最終的にシンガポールに移る決意をしました。 おわりに 以上、私自身の決定に作用した幾つかの要素について触れてきました。当初は6年半もボストンにいるなどと予想もしなかった私が、色々な方たちと出会い、様々な考え方に触れるにつけ、その内部で大きく変化が起こりました。しかし、それは必ずしも過去の自身を否定するものではなく、また、180度転換するものでもなく、おそらく既に存在していたキャリアディベロップメントプランの延長線上にありました。留学前はキャリアディベロップメントの概念さえも知らかなった私が、その重要性を認識し、自分に合ったプランを立てていく中で、シンガポールに移る決意をしました。自身がそうだったように、多くの研究者は大いなる可塑性を持っていると思います。起こりつつある変化をどのように受け止め、それをどう自身のプランに生かすのか。変わっていく自分を見るのは、ある意味楽しみでもあり、それが留学の醍醐味なのではないでしょうか。

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​編集者より

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編集後記:

三田さんは,アメリカで積極的にグラント申請されていた(かつ取得されていた)とのことで,大変ですが素晴らしい経験をされていると思いました.アメリカにおけるグラント申請は,業績も当然大事ですが,プロポーザルをちゃんと公正に審査してくれている印象があります.そこで技術を磨いていくことはPIとしてやっていくために重要なトレーニングですね.研究に国を挙げて力を入れているシンガポールでもきっとご活躍されることでしょう.

編集者:

本間 耕平

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