「君にも取れるよ」手渡されたノーベル賞メダル

執筆者:

河野龍義 インディアナ大学医学部リサーチアシスタントプロフェッサー

留学先:

米インディアナ大学

 2008年6月に私は妻と2歳の息子と3人でアメリカ中西部インディアナ州に降り立ちました。 博士課程の途中で結婚し、子育てをしながら博士論文を仕上げ、研究分野を医工学に移した翌年には妻も子育てに追われながら博士を取得しました。渡米準備期間もほとんどなく、急流に押し流されるかのように漂り着いたインディアナでアメリカ生活が始まりました。

 

 多くの失敗があったのですが、一番の問題はラボの実態が渡米前に聞いた話と全く違っていたことでした。すぐに雇い入れてくれる別のラボを探し、 渡米後3ヶ月で同じ研究センターの向かいのビル に移りました。書類上では同じ研究センター所属だったため、大きな手続きも無くあっさりと移籍できました。新しいボスはまだ若く、幼い2児の母で一緒にラボを立ち上げるところからのスタートでした。この頃の一番の救いは保育園に順応して元気に過ごしてくれている長男の笑顔でした。

 ラボ移籍後は思ったような研究ができ、2ヶ月で共著者として論文がアクセプトされ、4ヶ月後には NIHのフェローシップグラントの採用通知が来ました。 私が採用されたトレーニンググラントでは論文やグラントの書き方、科学倫理、統計学、専門医療知識などの授業が必須となるので大学院生と机を並べて講義や試験を受ける機会を経験できました。特に授業内で要求されるコミュニケーションやディベートは自分の力不足を思い知らされ、積極性と柔軟性が鍛えられました。また最新の顕微鏡や実験機器を使ってのワークショップも組み込まれており大学内のイメージングの第一人者と知り合う機会に恵まれたのも幸運でした。

 インディアナでの研究生活も軌道に乗った2010年真冬のインディアナで二人目の子供が誕生しました。外はマイナス20度でしたが多くの友人達が病院まで駆けつけてくれて祝福してくれました。夫婦でポスドクとして渡米し、2歳の子供を抱えながらの留学と言うと難しいと感じる方も多いと思いますが、保育園の充実、仕事場での女性の地位の高さ、職場全体の子育てへの意識の高さなど女性が活躍できる理由があふれていて、アメリカの社会を学ぶと言う意味ではプラスのことが多いと思います。子供を中心として家族での交流の場面も多く、子供や妻のおかげで出会えた信頼できる仲間が多いというのも事実です。仕事場でも夫として父親としての家族を支える行動を尊重されるのは嬉しいことでした。

 私の留学の意味を大きく変えたのは2011年3月11日の震災でした。私の実家がある宮城県沿岸が地震と津波に襲われ、東日本の広い範囲で莫大な被害がでました。4日後に両親と連絡が取れ、親戚、友人、友人の家族や親戚、母校である東北大の先生や先輩後輩の情報が伝わって来ました。無事という報告が大半でしたが悲しい報告もあり、毎日のように更新される衝撃映像を呆然と見つめながら過ごすことも多くなりました。アメリカ生活の言語の違い、文化の違い、人種差別、共働きと子育て、論文のリジェクトなどその他全てのストレスを足しても、掛けても、累乗したとしても震災の時ほどの絶望感を味わうことはないと思います。地震発生後3週間が経った頃、5歳の長男がチック症になりました。相変わらず 明るく振る舞ってくれていたのですが、地震、津波、原発の暗い話題ばかりだった夫婦の会話とパソコンに向かいながら突然涙する親により相当のストレスを与えてしまったのでしょう、まばたきが続き笑顔が消え皮膚が荒れるなど無理をさせてしまったことは明らかでした。どんなときでも子供を第一に考えて暮らして来たつもりでしたが、この時ばかりはずいぶん酷なことをしてしまったと反省しました。

 直後の4月30日、留学を通して最も印象深い出会いは落ち込んでいる状況の時に訪れました。 2010年にノーベル化学賞に輝いた根岸英一先生とアパート近くのマーケットで偶然会ったのです。根岸先生は挨拶を交わした直後、ポケットから何かを長男に渡して、5歳の少年の目をしっかりと見ながら「君にも取れるよ」とおっしゃったのです。それはノーベル賞のメダルでした。その時の写真は家族の宝物のように大事にしています。 根岸先生は撮影の時も長男の胸にメダルを掲げてくれました。科学者として次の世代に希望を託すという姿を教えて頂いたのだと今は理解しています。震災に対して何も出来ない無力感に襲われていた私にとって一筋の光が差し込むような出来事でした。研究に打ち込むことが答えだと思いました。その後、時間はかかりましたが目標としていたような論文を出すことができ、妻もNIHのフェローシップを獲得しました。長男も笑顔を取り戻してくれています。現職についてからは国際色豊かな大学院生達の実験指導の機会が増え、ポスドクの時とはちょっと違った試行錯誤の日々です。

 震災から4年が過ぎようとしています。アメリカでもいろんな場所で震災復興イベントが開かれ、日米の心ある人達が現状を伝えるために頑張ってくれています。私はそのようなイベントで日本とアメリカの交流に尽力する人々に共感し、研究の傍らインディアナ大学の国際交流部(Office of International Affair)の活動に関わるようになりました。インディアナ大学が日本との連携プログラムに力を入れていますので生命科学や医学分野でも日本の大学と活発に連携できるようにと取り組んでいます。また、インディアナ大学、パデュー大学、イーライリリー社の日本人研究者を結ぶネットワーク(INDY-Tomorrow)を設立し、数年ぶりに再会した根岸先生にもExecutive Advisorとして参加して頂き勉強会などのイベントを開催しています。

 活動を広げれば広げるほど、多くの方々が次の世代のために日米の友好に甚大な力を尽くして来たことを知ることになりました。私たちが海外で思い切り科学に打ち込むことができるのも特に戦後のアメリカと日本で次の世代に希望を託して来た多くの方々の努力のおかげだと気付かされました。子供の頃に夢中なった文庫のあとがきの一文を紹介します。「一物も残さず焼きはらわれた街に、草が萌え出し、いためつけられた街路樹からも、若々しい枝が空に向かって伸びていった。戦後、いたるところに見た草木の、あのめざましい姿は、私たちに、いま何を大切にし、何に期待すべきかを教える。未曾有の崩壊を経て、まだ立ち直らない今日の日本に少年期を過ごしつつある人々こそ、私たちの社会にとって、正にあのみずみずしい草の葉であり、若々しい枝なのである。この文庫は日本のこの新しい萌芽に対する深い期待から生まれた。この萌芽に明るい陽光をさし入れ、豊かな水分を培うことが、この文庫の目的である。< 中略> (1950年)」有名な文章ではありますが、この文章に表れている日本人の共通の思いが日本の科学の発展を支えて来たのだと思うのです。本当の豊かさは、次の世代に確かな光と澄み切った水を与えようという精神にあるのではないかと考えさせられます。この時代に生まれたことに感謝して、次世代に希望を託すためにも自分たちにできる最高のサイエンスを形にしていくのが私達若手研究者の役割だと思うようになりました。

 7年のアメリカ生活を振り返り、留学前の自分にアドバイスをするとしたら「住みやすい中西部は子供を育てるには良い選択だけど、ラボ選びが難しいゾ」と声をかけたいです。3ヶ月でラボを移るとは想像していませんでした。もう一つ言えることは「我慢しないでダメなラボは出て行けば良い」ということです。良い研究環境には 全体で若い研究者を支えていこうという意識があります。今の時代はどこででも研究ができます。もちろん日本でも良い研究ができますし、日本で養った能力は海外でも通用します。私の場合、日本で受けた教育と研究指導が全ての基礎となっており、恩師や先輩への感謝の気持ちが年々強くなっています。先輩達が切り開いてくれたおかげで、世界の至る所に活躍できる場所はあります。科学自体が世界の共通言語とも言えます。次の活躍の場所を探しているならば留学は一つのチャンスかもしれません。

2015/11/19

​編集者より

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編集後記:

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編集者:

坂本 直也

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